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弁証法を擁護する–毛沢東『矛盾論』批判

1949年の中国革命は、人類史に残る偉大な出来事の一つである。数十年にわたる激しい闘争の末、中国を帝国主義の支配から解放したこの革命を、マルクス主義者は擁護する。

革命を成し遂げたのは、中国の民衆が示した並外れた決意と犠牲の精神だった。そして、その運動を指導したのが毛沢東である。

毛沢東の死後、中国共産党(CCP)の官僚機構は、段階的に中国へ資本主義を復活させてきた。晩年の毛沢東は、党内の「資本主義の道を歩む者たち」、いわゆる走資派との闘争を指導したとみなされている。そのため、中国内外の多くの革命家が、新たな革命に向けた闘いの指針を求め、1949年革命を主導した毛沢東の思想に目を向けてきたのも理解できる。

共産主義の原則を本当に擁護するための理論的基盤を探ろうとする動きは、すべてのマルクス主義者が歓迎すべき前進である。マルクス主義は何よりもまず、現実から目をそらさず、物事をありのままに捉え、事実を正しく名指す科学的理論である。真実を直視する姿勢を貫かなければ、資本主義を根本から打倒することはできない。

毛沢東が1937年に著した哲学論文『矛盾論』は、マルクス主義理論への貢献を示す著作として、毛沢東主義者からとりわけ高く評価されている。しかし、革命で主導的な役割を果たしたからといって、毛沢東が優れた理論家だったわけではない。新しい共産主義者が弁証法的唯物論の正しい方法と、この時代の歴史的教訓を学べるようにするには、『矛盾論』の問題点を冷静に検討する必要がある。

『矛盾論』の中心にあるのは「矛盾」という問題だ。そこでまず、弁証法的唯物論と呼ばれるマルクス主義哲学において、この言葉が何を意味するのか確認しておこう。

日常的な感覚では、変化はしばしば、変化するものの外側から偶然に生じる出来事として理解される。社会の危機も、誤った政治指導者や外国からの干渉によって引き起こされたのであって、その社会自体に内在する矛盾から生じたのではない、と考えられがちだ。

これに対して弁証法は、あらゆる事物が、それ自体に内在する矛盾によって絶えず運動していると捉える。矛盾をなす対立物は、互いを前提とし、相手なしには存在できない。弁証法を発展させ、矛盾が中心的な役割を果たすことを明らかにしたヘーゲルは、マルクスとエンゲルスに大きな影響を与えた人物だが、この点を次のように説明している。

「債務と債権は、それぞれが独立して成り立つ二種類の財産ではない。債務者にとって否定的なものは、債権者にとって肯定的なものである。……したがって、肯定と否定は本質的に互いを条件づけており、互いとの関係においてのみ存在する。磁石の北極は南極なしには存在できず、その逆も同じである。……対立において、あるものが向き合うのは、単なる他者ではなく、それ自身にとっての他者なのである。」[1]

矛盾をなす両極は切り離せないだけでなく、互いのあり方を規定している。この意味で、それらは対立し合う。債務者が債権者との関係なしには債務者たりえない一方で、一方の行為は他方の利害と衝突する。

マルクスは、労働者階級と資本家階級の階級矛盾こそ、資本主義社会における根本的な矛盾であることを明確に示している。

「プロレタリアートと富は対立物であり、その意味で一つの全体をなしている。どちらも私有財産の世界が生み出したものだからである。……私有財産は、私有財産として、すなわち富として、自らを維持せざるをえず、そのことによって、自らの対極にあるプロレタリアートの存在をも維持せざるをえない。」[2]

言い換えれば、労働者と資本家は、互いとの関係なしには、それぞれ労働者や資本家として存在できない。両者の対立は、資本主義的生産様式に一時的に現れるものではなく、その内部に恒常的に組み込まれている。

この運動を止めることはできない。存在することは運動することであり、資本主義社会の運動は、突き詰めれば階級闘争の運動である。ただし、対立物の闘争は同じ状態を際限なく繰り返すわけではない。それは自らの変容、つまり「否定」へと向かう。マルクスはこう述べている。

「これに対してプロレタリアートは、プロレタリアートであるかぎり、自らを廃絶せざるをえない。そして同時に、自らの存在を規定し、プロレタリアートたらしめている対極、すなわち私有財産を廃絶せざるをえない。」[3]

これは、資本主義社会を動かす矛盾が労働者と資本家の対立だけだ、という意味ではない。この矛盾が恒常的かつ根本的なものであり、究極的には社会のほかの矛盾をも規定する、ということである。

では、毛沢東はこの問題をどのように扱っているのか。まず彼は、弁証法の基本原則として「矛盾は普遍的に、あらゆる過程に存在する」と述べている。[4]

さらに、個々の事物や過程には、それをほかの事物と区別する固有の矛盾、すなわち独自の「本質」があると説明する。そして、矛盾の種類が異なれば、それぞれ異なる方法によって解決されなければならないとする。たとえば、「プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾は社会主義革命によって解決され、人民大衆と封建制度との矛盾は民主革命によって解決される」という具合である。[5]

中国のような社会構成を含め、複雑な事物や過程には、複数の運動と矛盾が同時に存在する。ここで『矛盾論』の核心に行き着く。毛沢東によれば、複雑な事物の発展過程にある「多くの矛盾」のうち、「必然的に、その一つが主要矛盾となる」のである。[6]

毛沢東は、次のように説明している。

「帝国主義が[半植民地]国に侵略戦争を仕掛けると……帝国主義とその国との矛盾が主要矛盾となり、国内の諸階級間にあるあらゆる矛盾は、一時的に二次的で従属的な位置へと退く。1840年のアヘン戦争、1894年の日清戦争、1900年の義和団事件の際の中国がそうであり、現在の日中戦争でも同じである。」[7]

この論文が書かれた当時、日本は中国への侵略を進めていた。そこで毛沢東は、「一部の裏切り者を除き、中国のあらゆる階級は、帝国主義に反対する民族戦争に一時的に団結できる」と結論づけた。[8]

1937年、河北省来源の茶剣嶺の戦いにおける万里の長城の中国兵士たち(画像:パブリックドメイン)

毛沢東の説明に従えば、主要矛盾が帝国主義と国家全体との対立にあるとき、国内の階級間に対立が存在しないかのように、国民全体が真に団結できることになる。階級闘争は単に一時停止するか、ほかの問題から切り離されるか、あるいはその状況とは無関係になるというわけだ。

ここに毛沢東の根本的な誤りがある。階級矛盾は、互いに無関係で重要度の低い諸矛盾と並んで存在する「主要な矛盾」の一つではないし、状況しだいで「二次的な矛盾」に変わるものでもない。資本主義社会における階級矛盾は根本的なものであり、絶えず存在する。磁石が極を失えば磁石でなくなるように、資本主義社会も、階級矛盾の働きを停止させたまま資本主義社会であり続けることはできない。

この階級矛盾は社会のほかの矛盾にも浸透し、その多くを生み出している。たとえば帝国主義戦争は、階級矛盾から切り離された、純粋に「国家の利益」のための戦争ではない。実際には、資本主義社会の根本的な階級矛盾が大規模に表れたものなのである。

帝国主義戦争が特定の支配階級の利益を守るために行われることは、マルクス主義者にとって初歩的な知識だ。たとえば、国内の経済危機や政治危機のはけ口をつくる、新たな市場や利潤の源泉を獲得して危機を緩和・先送りする、あるいは国内の労働者階級の注意をそらす、といった目的がある。

たしかに、帝国主義による抑圧は、人々が自衛のために自国のブルジョアジーのもとへ結集することで、社会の階級的な亀裂を見えにくくすることがある。一方、ブルジョアジーは国民的団結の気運を利用し、支配階級としての地位を強めようとする。こうした状況で共産主義者が果たすべき役割は、支配階級による階級矛盾の隠蔽に加担することではなく、その隠蔽を暴くことである。

中国も例外ではなかった。蒋介石が率いた国民党(KMT)は、資本主義を基盤として中国の独立を実現することを目指したブルジョア政党だった。しかし歴史が示すように、国民党はそれを実行できなかった。1920年代に反帝国主義革命が展開すると、最終的に自国の労働者階級に敵対し、帝国主義側に立ったからである。

中国が日本帝国主義と戦った戦争が民族解放戦争だったことに疑いはない。中国革命にとって、帝国主義に対する闘争は決定的な課題だった。

こうした状況で、共産党が民族的抑圧に反対するスローガンを掲げ、解放戦争を組織することは正しい。そのためには、少なくとも一時的には、共通の敵と戦うブルジョア民族主義者と肩を並べることも避けられない。

ところが、毛沢東はこの正しい出発点から「主要矛盾」の理論を導き、対日闘争において共産党は階級的独立性を保つのではなく、ブルジョア政党である国民党の指導に従うべきだと主張した。

中国共産党は、次のような約束まで公に行った。

「……[中国共産党の支配地域にある]現在のソビエト政府を廃止し、人民の権利に基づく民主主義を実施して国家の政治権力を統一する……『赤軍』という名称を廃止し、[国民党支配下の]国民革命軍へと再編して、国民政府軍事委員会の指揮下に置き、その命令を待つ……」[9]

要するに毛沢東は、「第二次統一戦線」の名のもとに、1925~27年の革命時と同じように、中国共産党が政治面でも組織面でも自らを解体することを主張していたのである。

毛沢東の階級協調路線は、根本的な理論上の誤りから生じていた。民族的抑圧は、民族という抽象的な理由によってではなく、資本主義的な利害にもとづいて行われる。また、その抑圧が被抑圧国のすべての階級に等しく降りかかるわけでもない。こうした点は、共産主義者なら当然理解していなければならない。帝国主義の侵略が始まったからといって、被抑圧民族の内部にある階級矛盾が消えるわけではない。

レーニンは1920年のコミンテルン第2回大会で、次のように述べている。

「搾取国のブルジョアジーと植民地のブルジョアジーとの間には、一定の了解が成立している。そのため多くの場合、おそらくは大半の場合、被抑圧国のブルジョアジーは民族運動を支持しながらも、帝国主義ブルジョアジーと一定の合意を保ち、つまり帝国主義ブルジョアジーと手を組んで、あらゆる革命運動や革命的階級と闘っている。」[10]

この指摘は、それまでのおよそ80年間にわたる中国支配階級の行動をよく言い表している。帝国主義、とりわけ当初はイギリス帝国主義が中国を屈辱し、抑圧し、搾取してきた一方、中国の支配階級は概して、帝国主義勢力と有利な関係を結ぶことを優先し、それに反対するために中国人民と団結する道を選ばなかった。

毛沢東の考えが正しいのなら、当時の国民党政府は日本との戦争に全力を注ぎ、そのために共産党軍の協力さえ求めたはずである。だが、中国のブルジョア独裁者である蒋介石が掲げたのは、「まず国内を平定し、その後に外敵に抵抗する」という方針だった。[11]つまり、日本帝国主義との闘争を犠牲にしてでも、中国共産党との残忍な内戦を続けようとしたのである。

1937年以降の展開と、国民党・中国共産党間の「第二次統一戦線」は、この点をはっきり示している。蒋介石は、日本と戦うために中国共産党と協力すると口では約束したが、実際にはそのつもりがなかった。

日本との「同盟」が成立した後も、蒋介石軍は日本軍との戦闘をほとんど行わず、むしろ省単位で領土を放棄することを繰り返した。1939年半ばまでには、蒋介石は日本軍と戦うよりも中国共産党を封じ込めるために、精鋭部隊を最大50万人規模で投入していた。[12]日本との戦争はアメリカが代わりに勝利してくれる、という見込みに頼っていたのである。

その結果、1937年に日本軍の全面侵攻が始まってから最初の一年で、中国側は大敗と急速な撤退を重ねた。1938年までに北京、上海、武漢、南京が日本軍の手に落ちた。首都はたびたび移転を余儀なくされ、最終的に四川省の内陸部にある重慶へ移された。

重慶を最後の拠点として守るため、国民党が選んだのは、堤防を破壊して黄河を氾濫させるという策だった。日本軍が四川省など内陸部へ進軍する際に必要となる交通・輸送基盤を破壊するためである。被害は甚大で、最大約8万9千人の中国民間人が直ちに命を落とし、その後の飢饉や疫病による死者を合わせると約50万人に達したとされる。

この悲惨な出来事は、中国支配階級の「愛国心」の実態を物語っている。帝国主義と戦う場合でさえ、敵に与える損害以上の被害を自国民に負わせるような戦い方をしたのだ。

中国共産党は、この事態が意味するものを事実上理解していた。黄河周辺の洪水被災地で兵士を募り、赤軍の拠点を築いたのである。つまり、帝国主義の侵略という「主要矛盾」によって階級矛盾が「一時的に後景へ退いた」のではなく、支配階級が民族の利益を裏切る存在だと露呈したことで、むしろ階級矛盾がいっそう激化したことを、暗黙のうちに認めていたわけだ。中国共産党と蒋介石の間に形式上の合意はあっても、共通の敵である日本に対して階級を超えた真の団結が成立したわけではなかった。

『矛盾論』で毛沢東が主張するもう一つの点は、マルクス主義者は「教条主義」に陥り、変化する政治情勢に画一的な一般論を押しつけてはならない、ということである。毛沢東はこう述べている。「わが国の教条主義者は、矛盾の特殊性を研究し、個々の事物に固有の本質を理解しなければならないことをわかっていない。……彼らは怠け者であり、具体的な事物を丹念に研究しようとしない。」[13]

しかし、「具体的な事物を丹念に研究する」と説く毛沢東自身が、抽象的な断言と機械的な思考に終始しているのは皮肉である。事物をそれぞれ固有のあり方に即して研究せよ、という主張自体は、ありふれた一般論にすぎない。物事は変化するのだから、状況に応じて対応を変える必要がある。抽象的な水準では誰も反対できないが、それだけでは何も明らかにならない。

もちろん、矛盾のあり方はそれぞれ異なる。だが毛沢東の説明では、一つひとつの矛盾が、ほかの矛盾との関係から切り離された自己完結的なものになっている。ある矛盾にはその矛盾だけに対応する解決策があり、別の矛盾には別の解決策がある、というわけだ。まるで検査室に持ち込まれた血液検体を一つずつ調べ、誰がどの感染症にかかっているかを判定するように、それぞれの矛盾を個別に調査し、固有の解決策を見つければよいという発想である。

毛沢東が実際に伝えようとしているのは、中国革命はロシア革命とは異なる、中国は植民地的な境遇にあるのだから、その革命は社会主義革命ではなく民族革命であり、独自の解決策が必要だ、ということだ。そして、その解決策とは、宿敵である蒋介石との取引だった。蒋介石との同盟を革命への裏切りとみなす人々は、状況の特殊性を理解しない教条主義者だ、というのである。

1945年9月、重慶で日本に対する勝利を祝して乾杯する毛沢東と蒋介石(画像:パブリックドメイン)

毛沢東が「特殊性」の重要性を強調するのは、突き詰めれば、支配階級との妥協という政治路線に理論的な根拠を与えるためだった。

弁証法的唯物論によれば、全体は部分を単純に足し合わせたもの以上のものだ。階級闘争の法則や資本主義経済の法則といった、より一般的な水準で働く法則が、対立する階級や政党の利害と行動を最終的に規定する。

マルクスは1848年の時点で、資本主義が世界規模の経済システムへ発展していくことを説明していた。レーニンはこの世界的なシステムを帝国主義として分析した。資本主義のもとでは生産が国内市場の枠を超えて拡大し、その結果、経済はまず世界経済として一体化し、各国の経済はその中に組み込まれて従属し、それぞれ一定の役割を担うようになったのである。

そのため、「人民大衆と封建制度との矛盾」や「植民地と帝国主義との矛盾」といった個別の矛盾も、資本主義という世界システムと切り離せないものになった。コミンテルンが結成され、1920年代初頭までにアジア、とりわけ中国へと活動を広げていったのも、このためである。中国革命は、独自の矛盾と時間軸と解決策だけをもつ、世界から切り離された過程ではなかった。国際的な革命過程の一部だったのである。

1840年代以降、複数の外国勢力による半植民地的な搾取は、中国の国内経済を破壊し、多数の土地を持たない農民や貧困層を生み出した。そのことが、形成途上にあった中国の労働者階級の成長にもつながった。同時に、帝国主義は、自らに従属するようになった旧体制を支えていた。

台頭しつつあった中国の資本家階級は西洋帝国主義に依存し、世界市場と結びついていた。一方、中国の労働者階級は国際共産主義運動に展望を見いだした。この違いが、1920年代に中国共産党が急速に成長した背景にあった。

もちろん、これは中国革命に、丹念な研究を必要とする独自の特徴がなかったという意味ではない。資本主義や労働者階級についての一般論だけで革命を指導できる共産党はない。革命過程の各段階を分析し、その中に身を置き、各国の具体的な条件や人々の意識に結びついた明確なスローガンを掲げなければならない。ヘーゲルの言葉を借りれば、真理は具体的である。

中国革命を「具体的に」理解するとは、中国革命だけに固有の事柄として切り離すことではなく、適切な国際的文脈の中で捉えることを意味する。中国革命の時代は、究極的には世界革命の時代だった。各国は世界経済に依存しており、一国の革命闘争も、この世界的な体制に対する闘いの一部として理解するほかない。コミンテルンがなければ、中国共産党も存在しなかっただろう。

これは抽象的で学問のための学問のような議論ではない。その重要性は、その後の革命の経過によって明らかになっている。

『矛盾論』によれば、外国から侵略を受けると、階級間の対立は「主要矛盾」の位置から一時的に退くだけである。そうだとすれば、侵略が終われば階級対立は再び前面に現れるはずだ。実際、毛沢東自身も同じ論文で次のように述べている。

「……状況が変われば、矛盾の位置づけも変わる。帝国主義が戦争ではなく、政治・経済・文化といった、より穏やかな手段で抑圧を行う場合、半植民地諸国の支配階級は帝国主義に屈服し、人民大衆を共同で抑圧するために帝国主義と同盟を結ぶ。

そのような状況では、大衆は帝国主義と封建階級の同盟に対して内戦に訴えることが多い。他方、帝国主義は、半植民地諸国の反動勢力による人民弾圧を支援する際、直接介入よりも間接的な手段を用いることが多い。その結果、国内の矛盾はいっそう鋭くなる。」

毛沢東がここで述べている状況は、1945年以降の中国をそのまま描いている。日本に代わって、アメリカ帝国主義が中国を搾取する立場にあった。ただし、その支配の形態は日本による侵略よりも間接的で、表面的には穏やかなものだった。国民党と蒋介石は、中国共産党との戦争を再開するためにアメリカと緊密に連携し、莫大な軍事援助を受けていた。したがって、毛沢東は『矛盾論』の自らの論理に従うなら、「国内の矛盾」、すなわち階級闘争がいっそう鋭くなると認めなければならなかったはずだ。

ところが毛沢東は、対日戦争の終結後も国民党との休戦を続けた。その中で打ち出したのが「新民主主義」の路線だった。

この路線は、中国革命を社会主義革命とは位置づけず、代わりに「新民主主義社会」を樹立しようとするものだった。実質的には資本主義を維持しつつ、日本に協力した「官僚資本」や「反動派」の財産を国有化する構想である。資本家階級を含めた中国のあらゆる階級が、資本家階級の一部に対抗して同盟を組むという考えだった。

しかし、国民党や中国資本家階級のどの部門とも、安定した同盟を結べると考える根拠はなかった。それにもかかわらず毛沢東は、「新民主主義」の名のもとに、国民党の有力指導者を中国共産党との連立政権に残すという、指導部間の取引を提案した。これは本質的に、労働者階級とその独立した運動に対する不信を示すものだった。

だが、こうした取引は蒋介石によって一貫して拒否された。それも当然である。蒋介石はブルジョアジーの利益を守り、革命と中国共産党を粉砕するために権力を握った人物であり、それまでの約20年間も共産党の壊滅を試みてきた。毛沢東は、その同じ勢力との同盟を模索していたのである。この路線は、1947年に国民党が休戦を破棄し、その後の内戦を経て1949年に中国共産党が勝利したことで、現実によって否定された。

中国共産党が政権を握ると、資本家階級の大部分は蒋介石とともに中国を離れ、台湾に逃れて、アメリカの支援を受けた資本主義独裁体制を築いた。中国に残った資本家たちも、中国共産党が連立を何度提案しても協力を拒んだ。資本家たちから見れば、中国共産党は何十年にもわたって政府と戦い、資本主義の打倒を掲げて設立されたコミンテルンに加わっていた政党である。彼らがそのような政党を信用するはずはなかった。

一方、資本主義を擁護する国民党は、共産主義に断固反対するアメリカ帝国主義とも結びついていた。その後一年もたたないうちに朝鮮戦争が始まり、中国、ソ連、アメリカは、朝鮮が資本主義体制を維持し、アメリカの勢力圏にとどまるかどうかをめぐって、激しい戦争へと突入した。

これらの出来事は、客観的かつ世界的な力学に貫かれていた。そのため、新たに成立した中国共産党政権は「新民主主義」の綱領を放棄せざるをえなくなった。中国の資本家たちは朝鮮戦争でアメリカと反動勢力の側につき、その勝利が中国国内の新政権にも打撃を与えることを期待した。北朝鮮を支援して戦争を遂行する中国共産党にとって、国内の資本家による経済的な妨害を容認する余地は、さらに狭まった。

資本家たちが事業を放棄したり、事業を新政権への攻撃手段として利用したりしたことへの対応として、中国共産党は経済の大部分を国有化し、左へ大きく舵を切った。ここには、帝国主義との「民族的矛盾」が社会の根本的な階級矛盾とどう絡み合い、民族という枠組みだけでなく、階級闘争を通じて解決されていったのかがはっきり表れている。

資本家からの収用が正しかったことは言うまでもない。重要なのは、革命の実際の展開が、『矛盾論』で示された理論的方法を根底から否定したという点である。中国革命の経過は、支配階級に、帝国主義と戦うためにほかの階級と団結する意志や能力がある、という見方を覆した。植民地諸国で階級協調が可能であり、正当でもあるとする『矛盾論』の主張は、世界各地で採用されたスターリン主義の一般的な路線の一部だった。

毛沢東と中国共産党が革命の過程を率直かつ徹底的に総括していたなら、『矛盾論』に含まれる重大な誤りを修正し、中国内外の共産主義者に世界社会主義革命を前進させるための理論的手段を提供できたはずである。

しかし実際には、1937年に毛沢東が示した誤った方法は、修正されるどころか擁護され、さらに強化された。その結果、インドネシアやイランなど、この路線が適用された国々で悲惨な結果を招いた。

今日『矛盾論』を読むとき、問うべきなのは「毛沢東は資本主義を打倒したのか」ではない。「この理論を土台にして、私たちは資本主義を打倒できるのか」である。過去70年の経験は、それができないことを示している。

『矛盾論』における、個々の矛盾にはそれぞれ固有の解決策があるという毛沢東の主張は、弁証法的唯物論を一面的・機械的に歪めたものである。この考え方は、国や一国の特定の段階にはそれぞれ独自の矛盾があり、個別の解決策が必要なのだと強調することで、共産主義者が階級闘争を放棄することさえ正当化し、日和見主義的な近視眼や、場当たり的に方針を左右へ振る路線を助長した。

『矛盾論』に示されているのは、主観的で恣意的な歴史理解である。表面上、毛沢東は弁証法的唯物論者らしい正しい言葉を並べている。しかし、実際には歴史の背後にある論理や必然性、矛盾を説明せず、中国の歴史がいくつかの段階を経たという事実を列挙するだけにとどまっている。

毛沢東は、次のように書いている。

「第一次統一戦線の時期、国民党は孫文の『三大政策』、すなわちロシアとの同盟、共産党との協力、農民・労働者への支援を実行した。そのため国民党は革命的で活力に満ち、民主革命のために諸階級が同盟する組織となっていた。ところが1927年以降、国民党は正反対のものへと変わり、地主と大ブルジョアジーの反動的なブロックとなった。

1936年12月の西安事件の後、国民党は内戦を終結させ、日本帝国主義に共同で対抗するため、共産党と協力する方向へ再び動き始めた。これが、それぞれの段階における国民党の特徴である。もちろん、こうした特徴はさまざまな原因から生じた。」[14]

問題の核心は、この「さまざまな原因」にある。だが毛沢東は、その解明を読者に委ねている。大衆政党がわずか一、二年のうちに「革命的で活力に満ちた」存在から「地主と大ブルジョアジーの反動的なブロック」へと変わるのは、歴史的にきわめて重大な出来事であり、一人の指導者の気まぐれだけで起こるものではない。それなのに毛沢東が述べるのは、国民党が変わったということだけだ。かつては革命的だったが、今や反動的になった。かつては同盟相手だったが、今では敵になった。なぜそうなったのかについて、彼は掘り下げて説明しない。

実際のところ、毛沢東は中国革命についての理論的な見通しに、自らを縛りつけたくなかったのだ。党員に曖昧で融通の利く「弁証法」を説き、自らの立場を随時変更し、過去の主張と矛盾することもいとわず、その時々に現れた機会を利用できる、ほぼ自由な裁量を確保しようとしたのである。

ここに表れているのは、政権掌握以前から中国共産党内に存在していた官僚的な党運営であり、党が与党になった後、その傾向はいっそう強まった。

毛沢東が『矛盾論』を書いた当時、中国共産党は都市部に拠点を失っていたことも指摘しておく必要がある。都市の労働者階級を基盤に結成された党であったにもかかわらず、1928年以降は遠隔地の農村部に孤立していた。これは当初からの計画や理論の結果ではなく、1925~27年の革命が混乱のうちに敗北した結果だった。

中国共産党は、トロツキーが予見していたとおり、革命を指導する相手として信頼せよとスターリンが主張した蒋介石によって裏切られた。1926~27年、蒋介石は中国共産党と労働者階級に対する残忍な反革命を遂行し、数万人の労働者や共産主義者を虐殺した。

敗北は壊滅的であり、スターリンの指示にもとづく党の対応も誤っていた。そのため、反革命によって殺されなかった党員たちは、遠く離れた農村部へ逃げ込まざるをえなかった。

こうした状況に適応するなかで、党の組織運営は、民主集中制にもとづくボリシェヴィキ党というより、実質的には農民ゲリラ軍に変わっていった。政府軍の圧倒的な兵力に包囲されながら軍事的に生き残るには、厳格な軍事指導部が必要であり、議論に時間を割く余地はなかった。こうして官僚的でトップダウンの運営が定着した。毛沢東の論文は、まさにそうした運営方法を反映している。

1944年、陝西省で演説する毛沢東(画像:パブリックドメイン)

官僚的な指導部は、必然的に近視眼的で機械的な世界観に陥る。大衆を、自ら社会を変革できる独立した力として捉えられず、関係する階級の利害や力関係を無視し、上から命令を出せば物事が動くと考えがちだからだ。他党の指導者との取引だけで権力を握れると思い込み、その取引が労働者階級を遠ざけ、士気を失わせる可能性を見落とす。

実際、官僚的な指導部は、大衆の真の民主的参加も、自ら考え判断できる政治意識の高い党員も望まない。一般党員の議論や相互理解によって強くなる組織ではないため、政治的な討論や説得、鼓舞によってではなく、命令によって組織を動かす。そして、駆け引きを行い、派閥同士を争わせることで自らの地位を保つ。

毛沢東の主観主義的な世界観は、こうした状況から生まれた。毛沢東は自分を、あらゆることを把握している管理者のように見なし、党という主体が選択を行えば、矛盾そのものを操作できると考えた。何が主要矛盾で、何が二次的な矛盾なのかを党が決め、現実に進行している物質的過程を分析するのではなく、どの矛盾にどの解決策を当てはめるかを党が決定するのである。

その後、毛沢東は「党がすべてを指導する」という標語を広めた。この標語は、今日も習近平によって繰り返し強調されている。

この方法の実際的な帰結は、毛沢東が1957年に発表した『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』にも表れている。この論文では、中国共産党の政権掌握後に中国社会で生じたさまざまな対立に対して、あらかじめ用意された解決法が提示されていた。その指針にもとづいて、党官僚は持ち込まれた対立の性質を「判定」し、毛沢東の方針に従った解決策を示すよう求められた。

これは、形式にこだわる規範的なトップダウンの方法だった。その目的は、大衆の間にある問題を本当に解決することでも、ましてや問題の物質的な原因を理解することでもない。官僚支配への脅威を取り除き、大衆を党の厳しい統制下に置くことだった。

『矛盾論』が示す、矛盾を「解決」するための画一的な処方箋は、世界各地の共産主義者を教育するという課題にとって有害である。毛沢東の定式は単純明快に見えるかもしれないが、階級闘争、戦争、革命を動かす本当の力学を理解するための有効な指針にはならない。むしろ、理解を妨げるものとなっている。

『矛盾論』の思想は、マルクス主義とは異なる、スターリン主義的な階級協調路線を正当化するために繰り返し利用されてきた。同書は「教条主義」を激しく批判しているが、その内容は、共産主義者、労働者、農民を従属させる「進歩的」で「愛国的」な民族ブルジョアジーを探し求めるという、スターリン主義の教条を擁護している。中国の歴史が示す事実にかかわらず正しいとされるのなら、それ自体がまさに教条にほかならない。

毛沢東は中国革命の実際の展開を見通せなかった。しかしスターリン主義者は、そもそも歴史の展開を予見できたためしがない。これこそが『矛盾論』の本質である。同書は中国革命の現実の論理を説明するものではなく、状況に応じて変わる中国共産党官僚機構の必要を正当化する覆いにすぎない。

弁証法的唯物論の本来の目的は、現に進行している過程を真に理解することにある。そうすることで、階級闘争の展開に不意を突かれたり、一時的な潮流に圧倒されたりせずに済む。弁証法的唯物論は、資本主義社会の根本的な矛盾から出発することを教える。それによって、現在の状態がどのようにその反対物へ転化するのかを理解できる。好況は不況へと変わり、政治的同盟や世論の動向は、分裂や危機へと移り変わるのである。

毛沢東は権力を握ってから、劇的な方針転換を繰り返した。中国を自給自足できる経済にし、完全な独立を確保しようとしたものの、大規模な飢饉と多数の死者を招くと、ほどなくその路線を放棄した。また、長年にわたってアメリカ帝国主義を激しく非難しておきながら、1972年にはソ連に対抗するためニクソン大統領と会談した。

こうした急激な転換は、いずれも中国共産党の支配を当面維持するために行われた。その過程で、一国だけで、しかも労働者民主主義なしに社会主義を建設することはできない、という根本的な真理が見失われていた。

つまり、客観的な弁証法的過程を軽視し、社会に現実に存在する矛盾を正しく把握できなかったため、毛沢東は先を見通せず、自らの政策が予想外の結果を招くことになった。今日の中国が資本主義経済になっているのも、重要な点で、この失敗とつながっている。

皮肉なことに、『矛盾論』が唱える「教条主義」の拒否、事物を具体的に研究する必要性、矛盾が変化するという曖昧な主張は、今なお中国の官僚機構が計画経済を裏切る際の便利な口実になっている。資本主義への転換など、過去の立場を覆すたびに、「毛沢東が言ったように、矛盾もその解決策も変わる。教条的になってはならない」と主張できるからだ。そのため、中国共産党は今日に至るまで『矛盾論』を重要な理論的成果として称賛し続けている。

したがって、共産主義者にはマルクス主義理論、とりわけ弁証法的唯物論を注意深く学び、それをスターリン主義や毛沢東主義による修正主義的な歪曲と区別する責任がある。世界社会主義革命の成功がかつてなく切実に求められている時代に、スターリン主義的思想がもたらす敗北を許す余裕はない。

[1] G・W・F・ヘーゲル『論理学――哲学諸科学百科全書第一部』(1830年)、第119節、オックスフォード大学出版局、1975年、173頁。

[2] K・マルクス、F・エンゲルス「聖家族」、『マルクス=エンゲルス全集』第4巻、プログレス出版社、1975年、35頁。

[3] 同上、36頁。

[4] 毛沢東『矛盾論』、外国語出版社、1964年、11頁。

[5] 同上、17頁。

[6] 同上、31頁。

[7] 同上、32頁。

[8] 同上。

[9] 原文は Marxists Internet Archive 掲載資料を参照。訳文および強調は原記事執筆者による。

[10] 『コミンテルン第2回大会議事録』、コミンテルン出版社(アメリカ)、1921年、113頁。

[11] K・S・チェン『中国におけるソビエト・ロシア』ファラー・ストラウス・アンド・クダヒー社、1957年、208頁。

[12] L・E・イーストマン「ケンブリッジ中国史」第13巻第2部、ケンブリッジ大学出版局、1986年、570頁。

[13] 毛沢東『矛盾論』、16頁。

[14] 同上、24~25頁。

原文: Daniel Morley and Parson Young, “In defence of dialectics – a critique of Mao’s ‘On Contradiction’,” Marxist.com, 29 August 2025.  

https://marxist.com/in-defence-of-dialectics-a-critique-of-maos-on-contradiction.htm