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マルクス主義対アイデンティティ政治

本書は、国際マルクス主義潮流(IMT―現RCI)のあらゆるの次元における一年間に亘る徹底的討論を経て、2018年7月末に開催されたIMT世界大会において、原題「マルクス主義理論とは異質な階級思想との闘争」として全会一致で採択された文書である。その目的は、一定期間に亘って学界の活動家層に影響を与え、また国際労働者運動内部でも反動的な形態で用いられて居る一連の観念論的・ポストモダン的な異質な階級思想とマルクス主義との間に一線を画する事にある。

本書は、これらの思想と方法に対する理論的・政治的闘争を一層激化させる事を呼び掛けるものである。

資本主義の危機は、現存社会、その価値観、その道徳、その耐え難い不正と抑圧に対する深く根ざした多くの反対潮流を暴露した。社会における中心的矛盾は、依然として賃労働と資本との間の敵対である。しかし、抑圧は多様な形態を取り、その中には賃金奴隷制より遥かに古く、より深く根を下ろしたものも存在する。

最も普遍的かつ痛苦な抑圧形態の一つは、男性支配の世界における女性抑圧である。この怪物的抑圧に対する女性の反乱は、社会主義革命の闘争において根本的意義を有する。女性の完全な参加無しに、資本主義に対する闘争を通じて社会主義革命を達成する事は不可能である。

数世紀に亘り、階級社会の安定は家族に確固たる支点を見出して来た。即ち、女性の男性への隷属である。この種の奴隷制は資本主義より遥かに古く、エンゲルスが説明した様に、父権的家族の出現は「女性性の世界史的敗北」を意味した。「男は家庭においても指導権を握った。女は卑しめられ、隷属へと引き下ろされ、彼の情欲の奴隷、単なる児童生産の道具となった。」

この男性支配と社会及び家族における女性の従属的地位は、我々が過去から受け継いだ他の全ての野蛮な諸制度と共に、今や問い直されて居る。何故、女性は二等市民としての地位を容認し続けなければならないのか?社会及び家族における女性の役割に対する問い掛けは、深甚な革命的含意を有し、資本主義社会そのものに対する革命的な問い直しへと導き得る。

老衰期に達した資本主義の退廃は、全ての労働者の諸条件の深刻な悪化を齎している。しかし、それは特に女性と青年層に苛酷な条件を押し付けて居る。多くは適切な仕事や住宅を持つことを否定されて居る。片親家庭とその子ども達は、貧困と終わりなき困難に有罪宣告されて居る。多くの者にとって、屋根のある住まいを持つ事さえ困難、或いは不可能になりつつある。職場において、女性は賃金格差から汎ゆる種類の嫌がらせと虐待に至るまでの被害を受けて居る。状況は最早全く容認し難い水準に達している。

ある文化の文明度は、その文化が女性・子ども・高齢者を如何に扱うかによって判断する事が出来る。この観点からすれば、現代資本主義は、以前の人類社会形態より遥かに非文明的であり、非人間的・残酷である。人間存在の疎外と堕落の水準、人間の苦しみに対する無関心と、途方もない利己主義は、歴史上未曾有の水準に達している。

画像:Lucha de Clases(RCIベネズエラ支部)

資本主義社会の退廃は、女性に対する暴力の流行という最も粗野な形態において自らを露わにしている。インド、パキスタン、アルゼンチン、メキシコその他の諸国では、前例の無い数の誘拐・強姦・殺人として表出している。しかし、自らを文明国と称する事を好む諸社会においても、同様の恐怖が女性と子ども達に対して行われて居る。これらは、転覆に熟し切った社会の病的状態の、胸を悪くさせる様な症状である。

疎外感・不正義・抑圧に対する高まりゆく感情は、現状に対する女性の一般的反乱運動を涵養している。とりわけ若い世代の何百万という女性達が、自らが不正な制度の下で被って居る差別・抑圧・屈辱に対し、燃え立つ様な憤慨を抱いて目覚めつつある事は、極めて進歩的・革命的な現象であり、我々は最大限の熱情を以てこれを歓迎し支援すべきである。

マルクス主義者が女性の完全な解放に百%賛成である事は言うまでも無い。ここには一切の逡巡も曖昧さも疑念もあってはならない。我々は言葉だけでなく行為においても、汎ゆるレベルで女性抑圧と闘わなければならない。これがいかに二次的問題であり、単に階級闘争という一般的範疇の下に包摂され得るといった印象を、我々が与える事は決して許されない。もし女性達が、マルクス主義者は女性の権利の獲得に興味が無く、社会主義勝利の後まで自分達の権利の為の闘争を先送りする用意があると信じる様な事になれば、それはマルクス主義の大義にとって致命的であろう。これは完全に誤りであり、革命的マルクス主義の悪意ある歪曲である。

女性(及び男性)の完全な解放は、階級の無い社会においてのみ達成され得るという事は真実であるが、同様に真実なのは、その様な社会は資本主義を革命的に打倒する事によってのみ実現され得るという事である。女性は、自らの差し迫った緊急の要求を脇に置き、社会主義の到来を待つ事を期待されるべきではない。社会主義革命の勝利は、資本主義の下での前進を求める日々の闘争無しには考えられない。

マルクス主義者は、労働者大衆の生活水準を改善し得る如何なる小さな改革の為にも闘わなければならない。その理由は二つある。第一に、我々は搾取に対する労働者を防衛し、生活水準・民主的権利・文明的存在の最も初歩的諸条件、文化及び文明そのものを野蛮化から防衛する為に闘って居る。第二に、そしてより重要な点として、階級が自らの力を意識し、組織的強度を発展させ、その集団的意識を歴史が要求する水準まで引き上げる事が出来るのは、日々の闘争の経験を通じてのみである。

セクト主義者や教条主義者がして来た様に、「革命の利益」の名の下に労働者が日々の要求を棚上げすべきだと要求するのは愚の骨頂である。それは我々を完全な不毛と孤立へと運命付けるであろう。その道を進む限り、社会主義革命は永遠に実現不可能な蜃気楼として残るであろう。同様に、女性の前進の為の闘争、反動的男性差別主義との闘争、進歩的改革と社会的・政治的・経済的領域における完全平等の為の闘争は、全ての真の革命的マルクス主義者の根本的義務である。

2018年3月8日、スペインにおける女性運動の途轍もない革命的潜在力が、極めて生き生きと示された。530万人(女性と男性の双方)がストライキ行動の呼び掛けに応じ、スペイン各地で何十万もの人々がデモに参加した。この壮大な動員は、フェミニズムの旗印の下で行われたが、同時にこれは、例えば同時期に大規模なデモを組織した年金生活者運動など、スペイン社会に巨大な規模で蓄積して来た様々な諸問題に対する巨大な不満の気分をも反映していた。

画像:CANVALCA

中心的諸課題は、しかしながら、女性抑圧に直接関わる諸問題であった。賃金格差、家族・職場・教育現場における女性に対する暴力と嫌がらせ、家事労働の重荷等である。これは、パンプローナにおける凶悪な集団強姦事件と、その事件を巡る右派判事達の醜悪な振る舞いに端的に表現された。これは、全てフランコ独裁から直接継承されたスペイン国家・警察・司法全体の腐敗と反動的性格の明白な証拠であり、「民主的移行」と呼ばれる裏切りの結果である。

如何なる大衆運動においても、反動的要素と進歩的要素を慎重に区別する事が必要であるというのは、マルクス主義の初歩的真理である。この並外れた運動に巨大な進歩的要素が存在した事は、疑いの余地が無い。我々はこれを支持しただけでなく、精力的かつ熱狂的に支持した。

しかし、この側面のみを強調し、他方を無視するのは完全に誤りであり、一面的であろう。この運動の指導部の役割は何であったか。彼女達は女性のみのピケットとデモ行進における女性のみの隊列を要求し、紫色の旗だけを認めようとした。ストライキは女性のみが行い、男性は職場で彼女達の代わりを務めるべきだとされた。即ち、スト破りとしてである!

これは、3月8日の運動の射程を大いに狭め、ゼネストを絶対に不可能にしたであろう。これは運動の利益に完全に反しており、ブルジョア及びプチブルジョア・フェミニスト達の狭隘な視野と反動的・分裂的政策を明確に反映している。

我々のスペインの同志達は、この大衆運動に精力的に介入し、非常に好意的な反応を得た。我々は自らをフェミニストと称する事まではしないが、女性解放の闘争を全身全霊で支持し、抑圧と闘う全ての人々と肩を並べて闘う事を明確にしている。全てのデモや集会において、自らをフェミニストと見做す大多数の女性達から、我々に対する偏見を微塵も見出す事は無かった。

フェミニズムは学派や理論では無いというのは本当か。これは見方に依存する。3月8日にスペインでフェミニズムの旗印の下でストやデモに参加した数百万の人々は、指導部のフェミニスト的偏見とは何の関係も持たなかったという事は全く正しい。彼女達は、本能的に自らを義憤で満たす反動的諸現象と闘っていた。それこそが革命的発展の出発点である。

しかしながら、この運動の指導部は、マルクス主義のみならず、究極的には女性解放闘争の利益そのものに根本的に対立する一定の思想潮流と明確なイデオロギーを代表する、ブルジョア及びプチブルジョア・フェミニストの手中にあったのである。

今日では、フェミニズムという概念は余りに広くなり過ぎ、事実上意味を失いつつある。突如として、誰も彼もが「フェミニスト」になった。反動的政党PPの政治家達さえ、自らをフェミニストと称している。彼等には女性閣僚が居るからである。だが、その一人一人が男性の同僚と同じ様に反動的で腐敗している。

PPの中古版とも言うべき新党シウダダノスは、自らが当然「フェミニスト」であると特に強調している。しかし、このブルジョア・フェミニズムの現実は、党首アルベルト・リベラ自身が、3月8日のフェミニスト・ストは「反資本主義的」であるが故に支援出来ないと述べた事によって、余りに露骨に暴露された。我々はまた、デモに姿を現す事を最終的に決めたの政治家達が、デモ参加者からブーイングを浴び、運動から追放された事も付け加えておく。

最も先進的な部門ですら、汎ゆる種類の混乱と幻想に満ちており、ブルジョア及びプチブルジョア・フェミニズムの「理論家」達によって意図的に煽られて居る。例えば、「横断的(トランスヴェルサル)」運動、即ち階級や政治的イデオロギーに関係無く全ての女性を巻き込むべきだという観念が広範に存在する。

我々は友好的かつ辛抱強い接近を以て、これらの偏見と闘い、混乱を解明する事が出来る。しかし、我々は自らの旗を混同する事を避けねばならない。最良の要素を獲得する為には、常に堅固で明確なマルクス主義的立場を維持する事が必要である。

この重要な層と結び付く為に、我々が自らをフェミニストと称する事が必要だろうか。我々の全ての経験は、その様な事は不要である事を示している。以下の例は、非常に示唆的である。マラガ県アンテケラにおいて、我々は3月8日のフェミニスト・ストについて、複数の左翼組織や労組の女性活動家を招いた集会を組織した。我々の女性同志の一人が、労組活動家であり革命的マルクス主義者である事を明らかにしつつ我々の綱領を説明する発言を行った。集会の終わりに、若い女性達のグループが直ちに我々の本部に近付き、参加したいと申し出た。彼女達は自らをフェミニストと見做しているのは明らかであったが、マルクス主義の綱領と自らを同一視する事には全く問題を感じなかった。

もし我々の同志達が運動に対してセクト的かつ教条的態度を採っていたならば、彼女達の様な女性達から間違いなく疎外されていたであろう。その様な愚かな接近をマルクス主義者が採用する余地は全く無い。しかし同時に、我々は原則的態度を採り、自らが女性の権利の為に闘うマルクス主義者であり、この重要な闘争は社会を根本的に変革する為の全般的革命的階級闘争の一部としてのみ成功裏に遂行され得ると考える事を常に明確にしなければならない。

画像:フェアユース

此処には極めて明瞭な類比が存在する。それは民族問題に対するマルクス主義者の態度である。スペイン国家からのカタルーニャ独立要求を我々は支持するか。支持する。しかし、我々は同時に、資本主義の枠内で独立は何も解決しない事を説明する。我々は、将来的にイベリア諸民族の社会主義的連邦の一部となり得るカタルーニャ労働者共和国を樹立する事を主張する。

だが、それ故に我々は自らをマルクス主義的民族主義者と称するか。断じて否である。我々は民族主義者ではなく、プロレタリア国際主義者である。カタルーニャ国民が反動的なスペイン国家、腐敗したPP政権、フランコ政権から継承された非民主的な君主制の支配から自らを解放する闘いを支援する事は、正に我々の革命的な国際主義綱領の一部である。しかし、「マルクス主義的民族主義者」という語句は矛盾語法である。

再び言えば、カタルーニャにおける我々の経験は、労働者と青年の中で最良かつ最も革命的な要素を説得する為に、この様な紛らわしい言葉を用いる必要が無い事を示している。彼等の多くは、ブルジョア及びプチブルジョア民族主義の制限された反動的性格を理解し始め、より急進的・革命的・階級的な代替案を探し求めて居る。

究極的には、全ての問題――民族的抑圧の問題、女性解放闘争、人種差別との闘い――は階級的性格を有する。これこそが、マルクス主義と民族主義・フェミニズムその他全ての抑圧闘争の表現形態とを分かつ根本的分水嶺である。

3月8日のスペインにおける運動は、これらの諸点を下線で強調するものである。女性抑圧に反対する大衆運動は、途方も無い革命的潜在力を有する。しかし、この潜在力がその全的範囲に達し得るのは、運動がブルジョア及びプチブルジョア・フェミニズムの狭い限界を乗り越え、社会変革の為の労働者階級の全般的運動と結び付く程度に応じてである。我々の任務は、運動がこの必要な移行を成し遂げる事を援助する事である。

我々は、その様な運動に積極的に参加し、最良の要素を獲得しようと努める一方で、常にこれら全ての運動内部に存在する階級的分裂を鋭く明らかにしなければならない。進歩的要素に立脚しつつ、指導部におけるブルジョア及びプチブルジョア的諸要素を暴露し批判するのである。

理論の重要性

エンゲルスは、革命運動にとって理論の重要性を強調した。彼は闘争形態は二つ(政治的・経済的)ではなく三つであり、理論闘争を前二者と同列に置いた。レーニンは『何をなすべきか?』において、エンゲルスの見解に力強く同意してこう書いて居る。

「革命的理論無しに革命的運動はあり得ない。この考えは、日和見主義の流行的説教が、最も狭隘な形態の実践的活動への熱中と歩調を合わせて居る今日、いくら強調しても強調し過ぎる事はない。」

真正のマルクス主義インターナショナルを建設する為の前提条件は、マルクス主義の基本原則を防衛する事である。これは、労働者運動に対する異質階級の圧力を本質的に反映する汎ゆる種類の修正主義的諸思想に対する容赦無き闘争を意味する。

マルクスとエンゲルスは、運動の思想を骨抜きにしようとする全ての試みに対して容赦無き闘いを繰り広げた。最初は空想的社会主義者達、次にプルードンやバクーニンの追随者達、最後にデューリングの様な講壇社会主義者――「社会主義を時代に即して更新する」名目で、マルクス主義の革命的本質を剥ぎ取ろうとした「賢い」大学教授達――の誤った理論を徹底的に暴露した。

レーニンは、その革命的活動の初期から、「批判の自由」を要求しマルクスの一定の思想は時代遅れで修正される必要があると主張する「青年派」と戦う事を宣言した。彼は、この所謂「反教条主義」が、革命的マルクス主義の内容を「小さな事柄」の日和見主義者的政策に置き換えようとする者達の口実に過ぎない事を示した。この潮流は後にメンシェヴィズムとして結晶した。

画像:パブリックドメイン

その後、1905年革命の敗北に続く反動期において、諸階級の中間層インテリゲンツィアの間の絶望気分は、ボリシェヴィズム内部にも反映した。指導部の一部(ボグダーノフやルナチャルスキー)は、主観的観念論(新カント派)や神秘主義といった流行哲学を反映し始めた。

レーニンが、これらの思想と闘う為に、その最も重要な哲学的著作の一つである『唯物論と経験批判論』を執筆したのは偶然ではない。なお付け加えれば、レーニンはこれらの哲学的問題を巡って、ボリシェヴィキ指導部の多数派と袂を分かつ用意があった。これらはまた、超左的政治と結び付いていた。

トロツキーは死の直前、ソ連邦の階級的性格を巡り、米国SWP内部のプチブル潮流(バーナムとシャハトマン)と非常に鋭い闘争を展開していた。トロツキーは、ソ連防衛を拒否する彼等の誤った立場が、一方ではSWPに対する異質階級(プチブル知識人)の圧力を反映し、他方ではマルクス主義哲学(弁証法)の拒否である事を説明した。

これら僅かな例からも、理論闘争が我々の運動の歴史において常に果たして来た決定的役割を見る事が出来る。国際マルクス主義潮流(IMT)を他の全ての潮流から際立たせて居るのは、何よりも理論に対する我々の丹念な態度である。一世紀半に亘り、マルクス主義は資本主義社会の運動を支配する法則に基づいて科学的綱領を築き上げて来た。これは巨大な獲得であり、我々は右からであれ「左」からであれ、汎ゆる攻撃からこれを防衛しなければならない。

IMTはこの点において誇るべき伝統を持つ。多くの者がマルクス主義思想を放棄し、かつての「共産主義者」達すらそれに含まれていた時期においても、我々はマルクス・エンゲルス・レーニン・トロツキーの根本思想の防衛において一歩も退かなかった。Marxist.comのウェブサイトは、その理論的明晰さ、明快さによって高い評価を確立している。これこそが我々を労働運動の他潮流から明確に区別して来たのである。

我々は、ブルジョア及びプチブル・イデオロギーの圧力を反映する修正主義者達に譲歩する事を常に拒否して来た。我々は、「古臭い」とされるマルクスの思想に代わる「新しい思想」を要求する耳をつんざく大合唱に対して完全に無感覚であり続けて居る。実際には、マルクスの思想こそ最も現代的な思想であり、現在の危機を説明し、その打開の道を示し得る唯一の思想なのである。

文化の退廃

歴史上には、悲観・疑念・絶望の気分によって特徴付けられる時期が存在する。その様な時期には、現存社会とそのイデオロギーへの信頼を失った人々が、必然的に革命的な性格を持つ実行可能な代替案を探求する。しかし、既に死に体となりつつある古い社会も、依然として強大な影響力を及ぼしている。最早積極的支持を獲得する事は出来ないが、死体が悪臭を放つ様に、否定的な気分を発散する。

若き日のブルジョアジーは進歩を信じていた。何故なら、全ての残酷かつ搾取的特徴にも拘わらず、資本主義は生産力を発展させる上で極めて進歩的役割を果たし、より高次の人類社会段階――社会主義――の物質的基礎を敷いたからである。

かつてブルジョアジーが依然として進歩的役割を果たし得た時期には、それは革命的イデオロギーを有していた。それはロックとホッブズ、ルソーとディドロ、カントとヘーゲル、アダム・スミスとリカード、ニュートンとダーウィンといった偉大で独創的な思想家達を生み出した。しかし、衰退期におけるブルジョアジーの知的生産は、進行した老衰の全ての証拠を示している。

我々の時代において哲学の名の下に流通しているポストモダン的混乱は、それ自体として最もみじめな知的破産の告白である。大学キャンパスを得々たる態度で闊歩する知的スノッブ達は、過去の哲学者達を軽蔑を以て扱う。しかし、この所謂哲学の内容の貧困は余りにも明白であり、ポストモダンの「蚤割り」達は、かつての偉大な思想家達と比較されるや否や、即座に取るに足らない存在へと縮み上がる。

ポストモダニズムは、歴史的進歩という概念そのものを否定する。それは、それを生み出した社会が如何なる進歩も遂げる事が出来ないが故である。このポストモダン的「物語」が新たな哲学として真面目に受け取られて居るという事実そのものが、帝国主義的退廃の時代における資本主義とブルジョア・インテリゲンツィアの理論的破産に対する壊滅的な告発である。ヘーゲルの言う様に「斯かる僅少のものが人間精神の必要を満たし得るという事実から、我々はその喪失の程度を測る事が出来る」。

これは偶然ではない。現在の時代は、イデオロギー的混乱・背教・解体・分散によって特徴付けられて居る。この様な条件の下で、インテリゲンツィアを支配するのは悲観の気分である。昨日迄は資本主義を、終わる事の無い出世街道と快適な生活水準の保証と見做していた人々が、である。

銀行家を救済する為に、資本主義は社会の残り全てを犠牲にする準備を整えて居る。何百万人もの人々が不確実な未来に直面している。この一般的破局は労働者階級のみに影響を及ぼすのではなく、中間層・学生・教授・研究者・技術者・音楽家・芸術家・講師・医師にまで及んで居る。

中間層全体に発酵が生じており、その最も鋭い表現をインテリゲンツィアに見出す。これは、大資本家と労働者階級との間に挟まれ、自らの立場の不安定さを鋭く感じる階級である。一部は左へとラジカル化されるが、大多数、特に学界においては、悲観と不確実性の気分に支配されて居る。

彼等が「進歩などというものは存在しない」と言う時、それは「現在の社会は、明日が今日より悪くならないという如何なる保証も我々に与えない」という意味である。そして、それ自体としては全く正しい。しかし、彼等は、現在の体制を打倒する為に闘う必要があるという結論を引き出す代わりに、人類を歴史的袋小路に陥れ、文明と文化の未来、更には人類そのものの未来をも脅かしているこの体制から逃れる事が出来ないという事実の前で、隅にうずくまり、自らの内側に退却する。そして、「どうせ進歩など存在しないのだ」という慰めの考えで、不安な良心を鎮めようとする。

この偏狭な偏見・展望の欠如・知的臆病から、他のより実践的な結論が必然的に流れ出る。革命の否定と「小さな事柄」(言葉や「物語」を巡る些末な論争)への後退、主観性への退却、階級闘争の否定、「私」の特定の抑圧を「あなた」の抑圧よりも高く持ち上げる事、それは更に、運動の一層の区画化、究極的には原子化へと至る。

今日の状況と、レーニンが1908年に徹底的な激しさを以て闘った思想との間には勿論幾つかの相違が存在する。しかし、その相違は形態のみに関わる。内容は非常に類似しているか、或いは全く同一である。そして、その実践的結果は百分の百分反動的である。

背教の時代

レーニンは常に問題と困難について率直であった。彼のスローガンは「常に有るが儘を語れ」である。真実は時に不快であるが、我々は常に真実を語る必要がある。現実はこうである。客観的及び主観的諸要因の組合せにより、革命運動は後退を余儀無くされ、真正マルクス主義の勢力は小さな少数派に縮小している。これが真実であり、これを否定する者達は、自分自身と他者を欺いて居るに過ぎない。

近年、マルクス主義の基本命題を修正せよとの甲高い要求は耳をつんざくばかりになって居る。マルクス主義は「教条主義」或いはスターリニズムと同義語であると教えられて居る。「新しい方法」へのこの必死の探求は、「古く信用を失った」マルクス主義の「古い思想」に取って代わる事を意図しているが、それは全く偶然ではない。

労働者階級は他の階級から孤立して生きて居る訳ではなく、必然的に異質階級とそのイデオロギーの影響を受ける。我々もまた社会に住み働いており、これらの圧力と気分の影響を絶えず受けて居る。社会一般の気分は、労働者階級とその諸組織にも浸透し得る。階級全体が動いていない時期には、ブルジョアジー、特にプチブルジョアジーの圧力は強まる。

長期に亘る労働者階級の一時的非活動の後、労働運動の前面に躍り出たのはプチブル諸要素であり、労働者達は脇へと押し退けられた。労働者の声は、「闘う意志を全て失った賢い人々」の合唱によってかき消されて居る。彼等は、革命は涙と失望しかもたらさないと労働者達を説得する事に熱心である。

スターリニズム崩壊後、一般的な混乱とイデオロギー的退行の気分が支配的となった。多くの人々が共産主義運動から離脱し、ニヒリズムと懐疑主義が流行となった。社会民主党や共産党の裏切りに幻滅した左翼インテリゲンツィアは、スターリニズムや改良主義と決別する代わりに、マルクス主義や革命的社会主義そのものから離反した。

多くは、特に元スターリニスト達は、マルクス主義と社会主義闘争を放棄し、「新しい方法」を求めるドン・キホーテ的探求に出発した(それは虹の端にある金の壺の様に、決して見出される事はない)。これら老いたシニックにとって、若き日の革命の夢は、今や単なる愚行(「青春の過ち」、大修正主義者ハインツ・ディーターリヒの言葉を借りれば)に見える。そして、人は自らの過去に対して決算を下したいという強力な衝動を感じ、新世代が罪の道を歩む事を阻止する為に、これらの若き「過ち」を正したいと望むのである。

労働運動の諸組織は徐々に右へと押し流された。労働者は中間層キャリア主義者達に脇へ追いやられ、彼等は指導的地位を奪取した。これは多くの労働者を非活動へと追いやり、プチブル要素の更なる増大を招いた。

この様な時期には、「新しいリアリズム」「ニュー・レイバー」等々の「革新」の合唱によって、労働者の声はかき消される。プチブルの思想が支配的となる。「階級政治」と革命的社会主義の思想は「時代遅れ」と宣告される。「教条的マルクス主義」の代わりに、平和主義・フェミニズム・環境主義――実際、社会主義とマルクス主義以外ならどの様な「イズム」でも――が現れる。

画像:ドロレス・ルクセド

トロツキーは、1938年に『過渡的綱領』を書く中で、この様な現象に言及した。「多年に亘り世界プロレタリアートが蒙った悲劇的敗北は、公式組織を一層の保守主義へと運命付けると同時に、幻滅したプチブルジョア『革命家』達を『新しい道』の追求へと駆り立てた。反動と衰退の時代には常にそうである様に、全ての側から、革命思想の全経過を改訂しようと欲するいかさま師やシャルラタンが現れる。彼等は過去から学ぶ代わりに、これを『拒否』する。ある者はマルクス主義の不整合性を発見し、他の者はボリシェヴィズムの没落を宣言する。或る者は、マルクス主義を裏切った者達の誤りと犯罪に対して革命理論自体を責め、他の者は、即時かつ奇跡的治癒を保証しない薬を呪う。より大胆な者達は万能薬を発見すると約束し、その準備として階級闘争の停止を勧告する。『新しい道』の預言者の多くは、労働運動を倫理的ホメオパシーによって再生しようとしている。これら使徒達の大多数は、戦場に到達する前に自ら倫理的廃人となる事に成功した。この様にして、『新しい道』の名の下に、前マルクス主義的社会主義の文書保管庫に久しく葬られていた古い処方箋が、プロレタリアートに提供されて居るのである。」(レフ・トロツキー『過渡的綱領』)

今日、労働運動の周縁でみじめな存在を送る超左翼セクトにおいても、事態はそれ程改善されていない。彼等はマルクス・レーニン・トロツキーの名を毎文ごとに唱えるが、その著作を再刊する事すらしようとせず、ブルジョア及びプチブルから無批判に取り入れた、より「現代的」(或いは「ポストモダン的」)な諸思想を好む。マンデル派セクト(所謂第四インターナショナル統一書記局)は、その最も鮮明な例である。

他方の極には、ターフェ派(CWI)や英国のSWP、フランスの闘う労働者(ルット・ウーヴリエール)の様なセクトがあり、彼等はレーニンが鋭く糾弾した「エコノミズム」の沼に陥って居る。「労働者主義」の扇動的仮面と、学生やインテリゲンツィア全体の拒否は、理論への軽蔑と革命的政治を所謂「実利政治」や「パンとバターの諸問題」に置き換える事を隠蔽するための外装に過ぎない。どちらの逸脱がより悪いかを判断するのは困難である。

「古い物に対する新しい物」

『アラジン』の物語では、邪悪な魔法使いが行商人に扮し、古いランプと引き換えに新しく輝くランプを無償で提供する。アラジンの王女は愚かにもこの申し出を受け入れ、ランプの魔人の力を失う。この物語は娯楽的であるが、深刻な教訓を含んで居る。即ち、実証済みの価値を持つ物を、幻影に過ぎない輝く黄金と交換するのは愚かであるという事である。

皮肉な事に、資本主義の危機がマルクス主義を完全に正当化した正にこの時期に、「左翼」内部ではマルクス主義理論を投げ捨て、まるで役に立たないバラストであるかの様に扱う競走が繰り広げられて居る。かつての「共産主義者」達は最早社会主義について語る事すら無く、マルクスとエンゲルスの著作を塵箱に投げ込んだ。

革命的マルクス主義の思想は、時代遅れで無関係な物として描かれて居る。中間層インテリゲンツィアや「進歩派」達は、マルクス主義を誹謗する為に我先にと競い合って居る。この一般的なイデオロギー的混乱の雰囲気、マルクス「正統派」の疑問視と理論の拒否は、我々自身の隊列の中でさえ有害な影響を及ぼし得る。

我々はこの様な事を初めて目にする訳ではない。これら反革命的改良主義潮流は常に運動内部に存在して来た。我々が見た様に、マルクス・エンゲルス・レーニン・トロツキーは皆、デューリングやベルンシュタイン以来、常に修正主義者達の合言葉であった「新しい思想」のキャンペーンと闘わなければならなかった。我々は、ハインツ・ディーターリヒに対するアラン・ウッズ著『改良主義か革命か――二一世紀の社会主義』の中で、これら「現代的代替案」の幾つかを扱って来た。

マルクス主義を改訂せよというこの絶えざる探求は、過去の敗北と失敗に幻滅し疲れ果て、実践において革命的変革の為に闘う意志を失った年長層の落胆を反映しているが、一方で自らをマルクス主義者と装い、「年を取り賢くなった」結果、「古い思想」は結局、現実世界に対して何ら実践的な関係性を持たないユートピア的夢に過ぎなかったのだと理解したかの様に装いたいのである。

これらの議論の唯一の目的は、青年の注意を逸らし、最大限の混乱を引き起こし、新世代がマルクス主義へ到達する事を妨げる障壁として機能する事である。それは、ブルジョアジーによる社会主義と共産主義に対するキャンペーンの鏡像に過ぎない。しかし、後者よりも遥かに危険で破壊的である。何故なら、これは偽りの旗印の下で行われるキャンペーンだからである。

その担い手達は革命と社会主義に根本的に反対しているが、それを認めようとはしない――恐らく自分自身に対してさえも(彼等が自らの書く妄言をどの程度信じて居るかは、最早専門の心理学者に委ねる他ない)。彼等は、自らの反動的・反革命的・反社会主義的メッセージを、厚い「左翼的」「急進的」言辞の層で覆い隠している。それによって、大多数の人々にはそれを見抜く事が一層困難になって居る。社会主義の思想は希釈され、修正され、或いは単に放棄される。

マルクス主義潮流もまた、資本主義の圧力に免疫がある訳ではない。中間層インテリゲンツィアの混乱し悲観的な気分は、時にマルクス主義運動内部にも反響を見出し、「停滞した正統派」に対する絶えざる攻撃と「何か新しい物」への絶えざる訴えとして表出する。それは、アラジンの魔法使いのセイレーンの歌声を非常に思い起こさせる。

学生運動の危険性

革命的社会主義者にとって、社会主義と共産主義に対する激しい攻撃には既に慣れっこである。それは、資本主義と帝国主義の露骨な擁護者達のみならず、右派と左派両方の改良主義者達、更に資本主義に反対する事を自称しながら、如何にして戦うかは良く分かっていない所謂ラディカル・プチブル知識人達の側からも向けられる。

我々は、学生と青年の活動の重要性を強調し、それは英国のみならず米国やカナダを含む多くの国々で非常に重要な成果を齎している。我々は、予見し得る将来に亘ってこの方針を継続しなければならないが、その遂行方法についても慎重に考察しなければならない。

学生の中での活動が我々にとって莫大な可能性を持つのは真実である。しかし、同様に多くの危険とリスクを孕む事もまた真実である。我々は常に目を開いてこれらの危険を見据え、非常に深刻な結果を避けなければならない。大学は異質階級の人々に満ち、ブルジョア及びプチブル思想の影響を強く受ける異質な環境である事を念頭に置かなければならない。

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学生環境は依然として圧倒的にブルジョア的・プチブル的であり、それは労働者階級出身の学生にまで影響を及ぼす。多くの場合、彼等は社会的ハシゴを登り、それを蹴り落として自らの階級を遥か彼方に置き去りにし、医師・弁護士・政治家に成ろうとする事に熱心である。これは常にそうであるとは限らないが、余りにも頻繁に見られる現象である。

大学は、社会における反動的ブルジョア思想の伝達ベルトである。それは、ブルジョアジーが青年を混乱させ誤導し、革命から遠ざける為に千差万別の奇妙な思想を発達させる実験温室である。大学は「学問の神殿」ではなく、資本主義のイデオロギー的擁護者を大量生産する工場である。

資本主義の老衰期において、大学は反動的思想が繁茂する有毒な沼地となり、誰もそれに正面から立ち向かう勇気を持たない。

マルクス主義学生の第一の義務は、これらの思想と闘う事である――ブルジョア学界の露骨に反動的な思想だけでなく、体制に反対するふりをしながら、実際にはこの又はあの症状に対する無力な怒りに自らを限定する「進歩的」「急進的」プチブル諸要素の無数の混乱した諸観念とも闘う事である。

反動の思想的武器

これらの思想の担い手達が1980年代末から1990年代にかけて大学で台頭したのは偶然ではない。階級闘争が後景へ退いた時期に、大学において大規模な反マルクス主義キャンペーンが展開された。1970年代と80年代初頭の革命運動に参加していた人物が大学に取り込まれ、マルクス主義を攻撃する為に快適な職に就けられた。

これらの攻撃の一部は、露骨に資本主義擁護的な粗野な形態を取ったが、他のものはより巧妙に隠されていた。インターセクショナリティとアイデンティティ・ポリティクスは、「左翼」知識人達が階級闘争を放棄し社会主義から離脱する、しかしなお「進歩的諸原因」への口先の忠誠を維持する為の便利な手段を提供した。

支配階級が、今日これらの思想を教育制度全体を通じて推進しているのは決して偶然ではない。例えば、クィア理論は、近年マルクス主義への反動として発展したポストモダニズムとその他の観念論的・主観主義的思想の波にその起源を辿る事が出来る。最近機密解除された1985年のCIA報告書『フランス:左翼知識人の離反』は、学界における右傾化に対するこの情報機関の喜悦を明らかにしている。

「ミッテランの政策の失敗と共産党との短命な同盟は、彼の政府に対する幻滅を加速させたかもしれない。しかし、左翼知識人達は少なくとも1970年代初頭以来、社会主義――党とイデオロギーの双方――から距離を取りつつあった。新哲学者を自称する共産党出身の若い離反者グループに率いられて、多くの新左翼知識人達はマルクス主義を拒否し、ソ連に対する深く根ざした反感を発展させた。反ソ連主義は実際、左翼知識人の正統性の試金石となり、左翼の伝統的な反米主義を弱め、アメリカ文化――更には政治的・経済的政策――が新たな流行を見出す事を可能にした。」(強調は引用者)

報告書は続けて述べる。

「マルクス主義イデオロギーの破産。哲学体系としてのマルクス主義に対する幻滅――これは全ての政治色の知識人達の間におけるより広範なイデオロギーからの退却の一部であった――は、伝統的左翼に対する特に強力かつ広範な知的幻滅の源泉であった。レイモン・アロンは、旧友サルトルと彼を通じたフランス・マルクス主義の知的構築物を失墜させる為に長年努力して来た。しかし、マルクス主義を弱体化させる上で、より効果的であったのは、真の信奉者として社会科学にマルクス主義理論を適用しようと出発しながら、最終的にこの伝統全体を再考し拒否するに至った知識人達であった。

戦後フランス史学において、マルク・ブロック、リュシアン・フェーヴル、フェルナン・ブローデルに名を冠する有力学派は、伝統的マルクス主義史家を圧倒して来た。主刊行物の名を取ってアナール学派として知られるこの学派は、1950年代から60年代にかけて、何よりもそれ迄支配的であった歴史的進歩のマルクス主義理論に挑戦し、その後これを拒否する事によって、フランス史学的研究を根底から覆した。多くの論者は自らを『マルクス主義の伝統に属する』と主張するが、それは単に、彼等が社会史の実際のパターンを見出そうとする際にマルクス主義を批判的出発点として用いるという意味に過ぎない。大部分の論者は、過去の構造――社会関係・事件のパターン・その長期的影響――に関するマルクス主義的観念は単純化されており無効であると結論付けて居る。人類学の分野では、クロード・レヴィ=ストロース、フーコーその他に名を冠する影響力ある構造主義学派が、実質的に同じ役割を果たした。構造主義とアナール学派の方法論の双方は現在苦境に陥って居るが(批判者は、それらが素人には余りに難解であると非難している)、我々は、西欧、特に西欧におけるマルクス主義的影響の批判的解体という彼等の業績は、フランス及び西欧の現代学問への深遠な貢献として今後も存続するであろうと信じる。」(強調は引用者)

同様に、CIAは、パルチザン・レビュー、デル・モナート(アドルノやアーレント等が寄稿した)、ムンド・ヌエボ等、多くの「反全体主義」左翼刊行物を秘密裏に支援していた。これら雑誌群全体を貫く共通テーマは、階級闘争に対置された「知識人」の擁護であった。

画像:カオスの館

正にこれらの知識人達の手から、今日大学を支配しているブルジョア及びプチブル思想が生じたのである。フーコーはクィア理論の父と見做されて居る。階級闘争が、指導者達の無数の裏切りを受けて衰退するにつれ、これら紳士淑女達は、階級闘争と労働者階級に欠陥があるのではなく、その指導部に欠陥があるのではないかと結論した。彼等は単に、自らの「哲学」をブルジョアジーと労働官僚の利益に適合させたのである。彼等の頭の中では、階級闘争は、共通の特徴を持たない無限の個別闘争へと解消された。

彼等が階級闘争を認める範囲内では、労働者階級の「後進性」を軽蔑し、卑怯な指導者達に対して果敢な指導を要求する代わりに、「言説」の変化を呼び掛けた。CIA報告が示す様に、支配階級は、これらの「急進的」な流行思想によって少しも脅かされていない所か、マルクス主義に対するイデオロギー闘争における貴重な道具として、これらを心から歓迎していたのである。

「インターセクショナリティ」と「アイデンティティ・ポリティクス」

近年、ラディカル・プチブルを席巻したアイデンティティ・ポリティクスの最新亜種の一つが、インターセクショナリティ概念である。これは単なる軽微な逸脱や善意の若年層による混乱ではなく、我々が手元の汎ゆる手段を用いて闘わねばならない、全くの逆行的・反動的・反革命的イデオロギーである。

支配階級は常に、古来の「夷を以て夷を制す」「分割して統治せよ」の戦術に従って労働者階級内部に分裂を蒔こうとして来た。彼等は、人種差別・民族問題・言語・社会的性別・宗教など、汎ゆる手段を用いて、ある労働者集団を別の労働者集団に対立させて来た。これら全ては、依然として、労働者階級を分裂させ、富裕者と貧者、搾取者と被搾取者との間の階級闘争からその注意を逸らす為に用いられて居る。

この事実は、左翼のほぼ全ての人々に良く知られ理解されて居る。しかし、人種差別・性差別・その他社会に存在する諸種の抑圧と闘う中で、もう一方の極端に行き、階級的観点を放棄し、我々を分裂させる物を全ての上に置き、抑圧の根を階級社会にではなく、集団Aまたは集団Bの部分的利害に求める危険が存在する。その結果は極めて否定的である。

特定の抑圧形態に焦点を合わせる人々の大半は、抑圧の真の基礎である階級社会を無視するか軽視する傾向にある。彼等は、資本に対する革命的闘争において労働者階級を団結させる汎ゆる試みに反対し、我々はこのまたはあの個別問題に集中すべきだと主張する。その結果は、極めて否定的な物である。

多くの国々で、大学当局と学生自治会は、「政治的正しさ」やアイデンティティ・ポリティクス、特定の人々の感情を傷付けないとの名目に隠れながら、露骨な差別と検閲を行って居る。これは人種主義者やファシストに対してだけでなく、左翼に対しても、ますます頻繁にスピーカー・バン(講演禁止)を行う形で現れて居る。

カナダの以下の例は、これらグループの反革命的活動を暴露するのに十分である。米国大統領選後、トロントの若年層グループが、自発的にFacebookを通じて反トランプ・デモを組織しようとしていた。彼等は直ちに「アイデンティティ・ポリティクス」勢力から激しい罵倒を浴び、「黒人スピーカーがいない」等の理由で最も悪辣な言葉で糾弾された。その結果、威圧されたと感じたこれら若年層達は意気阻喪し、運動から追い出された。これは孤立した事例ではなく、この潮流の反動的戦術を典型的に示すものである。

物事を本来の名で呼ぶ時が来て居る。即ち、アイデンティティ・ポリティクスと、近年頭をもたげたそれに関連する全てのナンセンスは、明白な反革命的潮流を代表しており、最大の力を以て闘われねばならないと、はっきり述べる時である。

民族問題

所謂アイデンティティ・ポリティクスと民族問題との間には、一定の類比を描く事が可能である。勿論、汎ゆる類比には限界がある。しかし、この場合、類比は非常に顕著であり、簡潔に述べる事が出来る。即ち、マルクス主義者は、国籍・社会的性別・民族性・言語・宗教その他如何なる理由に基づくものであれ、汎ゆる形態の抑圧・差別に反対し、これと闘うという事である。それで十分である。

マルクス主義者は、強大で略奪的な帝国主義国家に抗う被抑圧民族を防衛する。我々は、汎ゆる形態の抑圧に反対する。それが出発点である。しかし、これら初歩的命題は、民族問題に対するマルクス主義的態度を語り尽くす物ではない。A・B・Cの後には、更なる文字が続く。

マルクスは、労働問題は常に最も重要な問題であり、民族問題は常に労働問題に従属する、と説明した。民族自決権は、時間と空間の外にある絶対的権利ではない。それは常に国際プロレタリア革命の一般的利益に従属する。レーニンは頻繁に同じ点を強調した。資本主義に対する労働者階級の闘争は、全民族の労働者の完全な連帯と最も緊密な統一を要求する。

民族的抑圧や差別の全ての表現と闘う一方で、我々は労働者を自らの見解と政策に従属させようとするブルジョア及びプチブル民族主義者達の試みに抵抗しなければならない。1914年の『民族自決権について』において、レーニンは次の様に書いた。

「雇用労働者にとって、自らが主として大ロシア人のブルジョアジーに搾取されるか、非ロシア人のブルジョアジーに搾取されるか、或いはポーランド人のブルジョアジーかユダヤ人のブルジョアジーに搾取されるかは、何ら違いを持たない。自らの階級的利害を理解した雇用労働者にとって、大ロシア人の資本家の国家的特権も、ポーランド人やウクライナ人の資本家が国家的特権を獲得した暁には地上の楽園を築くと約束する事も、どちらも興味を持つに値しない。資本主義は、複数の民族から成る多民族国家においても、独立した国民国家においても、ともかく発展しつつあり、今後も発展し続けるであろう。」

周知の通り、レーニンは民族自決権、分離に至る権利の要求を一貫して支持した。しかし、それは等式の一方の側面に過ぎない。レーニンはまた、労働者階級とその諸組織の統一を防衛し、民族的路線に基づく労働者組織の設立(敢えて言えば、「アイデンティティ・ポリティクス」路線に基づく組織)に対する如何なる示唆にも容赦無く反対した。

民族問題に関する著作の中で、民族自決権の堅持と並行して、レーニンは、マルクス主義者が自らとプチブル民族主義者・民主主義者との間に明確な一線を画す必要を強調した。

「第二に、我が国では、西欧及び我が国自身におけるマルクス主義の完全な理論的勝利という条件の下で、プロレタリア民主主義と一般ブルジョア・プチブル民主主義との不可避の分離闘争――全ての国が経験した闘争と根本的に同じ闘争――が遂行されて居る。従って、この闘争の形態は、マルクス主義の為の闘争というよりも、『殆どマルクス主義的』言辞の背後に潜む全てのプチブル理論に対する闘争の形態を取って居る。」(『ロシア社会民主労働党の民族綱領』1913年)

我々は、被抑圧民族の権利を常に被抑圧者に対する抑圧者から防衛する。しかし、それは、被抑圧民族のブルジョアジーの押し付けを受け入れ、労働者階級をその要求に従属させなければならない事を意味しない。寧ろ、被抑圧民族の労働者にとって第一の義務は、自らの民族ブルジョアジーに対する容赦無き闘争を遂行し、その扇動的主張を暴露し、被抑圧民族の労働者を「自国」ブルジョアジーに従属させようとする全ての試みに抵抗する事である。

レーニンは『民族自決権について』の中でこう述べて居る。「ブルジョアジーは常に民族的要求を前面に掲げ、これを断固として主張する。しかし、プロレタリアートにとっては、これらの要求は階級闘争の利害に従属する。」

ユダヤ人はツァーリ時代ロシアにおいて最も酷い抑圧を被っていた。ユダヤ人労働者は労働者としてだけでなくユダヤ人としても二重に抑圧されていた。ボリシェヴィキはユダヤ人に完全な権利を要求し、反ユダヤ・ポグロム扇動者達と武器を取って闘った。しかし、レーニンは、ロシア社会民主労働党内部で特別地位を主張するユダヤ人同盟(ブント)の試みに対し、最も強い言葉で反対した。彼は、彼等がユダヤ人労働者を専ら代表する権利を否定した。彼は、その様な主張を受け入れる事はプロレタリア政策からの逸脱であり、労働者をブルジョア政策に従属させる事になると述べた。ブント派は憤慨し、レーニンをユダヤ人問題に対する感受性の欠如で攻撃したが、レーニンは肩をすくめただけであった。プロレタリア階級の統一と国際主義の原則は、民族問題に優先しなければならなかったのである。

民族的抑圧に対するレーニンの態度と、「アイデンティティ・ポリティクス」一般、特にフェミニズムに対する我々の態度との間には、類比を引き出す事が出来る。ブルジョア及びプチブル・フェミニスト達は、ブルジョア民族主義者達と同様、社会的性別問題が全てに優先すべきだと断固主張し、労働者階級女性は他の全ての女性、何よりもフェミニスト運動を支配する「賢い」ブルジョア及びプチブル女性インテリと、第一義的に自らを同一視すべきだと要求する。

我々は彼女達の執拗な要求に次の様に答える。即ち、我々は女性の権利防衛の為に闘うが、全ての女性の利益の為に闘って居ると装いながら、究極的には自らの利害を追求しているブルジョア及びプチブル女性の指導部に自らを従属させる用意は無い、という事である。労働者階級女性の利害は、労働者階級男性の利害と根本的に同一である。全ては銀行家と資本家によって抑圧・搾取されており、それら銀行家と資本家が男性か女性かは彼等にとって何の違いも無い。

画像:フェアユース

労働者階級女性は労働者としてだけでなく女性としても抑圧されており、我々の綱領的要求の中で提起されるべき特定の諸問題に直面している。しかし、労働者階級女性の要求の為に闘う上で、ブルジョア及びプチブル諸要素を信頼する事は出来ない。究極的には、両者の利害は一致せず、相互に敵対的だからである。

民族問題において、労働者・農民と民族ブルジョアジーとの敵対は、往々にして内戦という形で表現された。この様な場合、ボリシェヴィキの態度は如何であったか。具体的例を挙げよう。フィンランドにおける民族運動は進歩的か反動的か。ボリシェヴィキは被抑圧民族に対する自決権を、フィンランド人やポーランド人を含めて承認した。しかし、それは物語の一部に過ぎない。フィンランドでは、ボリシェヴィキと白軍との間に内戦が存在し、後者はフィンランド独立の旗印の下で戦っていた。

もしボリシェヴィキが十分な軍事力を持っていたならば、彼等はフィンランドに介入し、ブルジョア民族主義者を粉砕し、労働者を支援した事は間違い無い。そして、フィンランド労働者の勝利は独立にではなく、フィンランドのソビエト共和国への編入に繋がったであろう。

トロツキーはかつて、被抑圧者の民族主義は「未成熟なボリシェヴィズムの外殻」であり得ると書いた。この命題は、一定の場合には完全に正しい。しかし、常にそうである訳ではない。被抑圧民族の民族主義は、未成熟なボリシェヴィズムの外殻であり得る一方で、新生ファシズムの外殻であり得る。それは具体的諸条件に依存する。

例えば、力関係が異なっていたならば、フィンランドの自決権は、国際プロレタリア革命の利益に完全に従属させられていただろう。不幸にして、ソビエト共和国はまだ赤軍を持っておらず、フィンランド革命は白軍によって粉砕された。この場合、「フィンランド民族主義は未成熟なボリシェヴィズムの外殻であった」と主張するのは全く反動的であろう。同様の例は幾つも挙げる事が出来る。

人種主義とアイデンティティ・ポリティクス

合衆国は、戦争・征服・奴隷制という長く残酷な歴史の結果として、驚くべき多様性を持つ国である。若き米国資本主義が自信に満ち、終わり無く移民を吸収する事が出来た時代、自由の女神は「疲れた者、貧しい者、自由な空気を吸う事を切望する雑踏を我に与えよ」と刻んだ。しかし今やこれはその反対物に変わった。アメリカ資本主義の老衰的退廃は、ドナルド・トランプの反動的で狭隘な排外主義政策の中に見事に表現されて居る。「アメリカ第一」の政策は、合衆国が世界と、その結果として世界資本主義危機から自らを切り離す事が不可能である時代に、旧来の孤立主義政策へと回帰しようとする試みを意味する。

トランプの反動的扇動は、失業と貧困の責任を移民や外国人に転嫁する事で、米国労働者を混乱させる事を目的としている。人種主義が激化し、移民や非白人の間には恐怖の気分が蔓延している。これらの層の間で、「アイデンティティ・ポリティクス」は共感的反響を見出し得る。それは十分理解可能である。しかし、全ての事柄と同様に、正しい観念も極端にまで推し進められる時、それは自らの反対物に転化する。

合衆国には、より最近の「アイデンティティ・ポリティクス」に先行する長い「アイデンティティ」の歴史が存在する。アイルランド系アメリカ人・イタリア系アメリカ人・ユダヤ系アメリカ人等として自らを規定するという意味でのアイデンティティ概念は、アイルランド系アメリカ人労働者はアイルランド系アメリカ人資本家と、イタリア系アメリカ人労働者はイタリア系アメリカ人資本家と、ユダヤ系アメリカ人労働者はユダヤ系アメリカ人資本家と、そして最近では黒人やラテン系労働者は黒人やラテン系資本家と、それぞれ自らを同一視すべきだという観念を推進する為に用いられた。これは、労働者を民族的出自に基づいて分断し、労働者階級全体を弱体化させる反動的手段であった。

画像:ジョニー・シルバークラウド、Flickr

それにも拘わらず、若い黒人が自らのアイデンティティを主張し、自らの民族性を誇りに思いたいと望む事は、理解可能かつ正当な反応である。それは、合衆国という自らの出生の地において、歴史や文化における如何なる地位も否認され、制度化された人種主義によって世代に亘って軽蔑されて来た事に対する反応である。これは、ラテンアメリカにおいて搾取と隷属に倦み疲れ、自らを先住民である事を誇りに思い、自らの言語と文化を防衛したいと望む一部先住民族集団にも同様に当て嵌まる。

同様に、マルクス主義者は、性的指向・民族性・社会的性別・アイデンティティを理由とする如何なる差別や抑圧にも積極的に反対し、同性愛者・同性婚等に関する全ての反動的法を撤廃する為に闘うべき事は言う迄も無い。それは、右翼と支配階級全体に対する一般的闘争の一部である。マルクス主義者は、誰がその犠牲者であろうとも、資本主義が引き起こす全ての抑圧と不正義を糾弾する。女性抑圧から環境破壊、小民族抑圧に至るまで、資本主義の全ての災厄は、我々にこの体制に対する怒りを掻き立てる。我々は「一人への攻撃は万人への攻撃」を旗印とする。マルクス主義は人類解放の為の闘争に関する包括的理論であり、その闘争の先頭に労働者階級を据える。何故なら、それは最も革命的な被抑圧社会階級であり、生産と社会において特殊な役割を持ち、資本主義体制の直接的産物だからである。全ての抑圧に対する闘争における労働者階級の指導的役割は、階級社会・民族抑圧・男女抑圧を廃絶する社会主義社会の胎芽的要素が、その生活条件と労働条件の中に包含されて居る事実からも導き出される。

この積極的連帯は、主観的経験の優先を主張するアイデンティティ・ポリティクスに由来する「アライシップ(同盟者意識)」という概念とは完全に相容れない。抑圧を実際に経験した者のみがそれを理解し闘う事が出来ると主張されるが故に、被抑圧・周縁化された諸集団の窮状に共感する者達は、受動的支持者として第二義的役割に格下げされるのである。

しかし、所謂「アイデンティティ・ポリティクス」は、女性・黒人アメリカ人・移民・先住民・LGBTの大義にとって実際には有害である。それは橋渡しを標榜しながら人種間分裂を深め、言論の自由を窒息させ、理性的討論を不可能にする。政治的扇動家やプチブル狂信者達は、議論の代わりに甲高い糾弾を以て如何なる者も黙らせ、「政治的正しさ」を少しでも疑問視する者を怒号で封じ込める。ヒステリーの雰囲気が醸成される。

これらの人々は、政治的・社会的諸問題を被抑圧集団の問題に還元出来ると想定する。彼等は、肌の色や社会的性別に基づく正義への要求が全ての問題を解決すると思い込んで居る。実際には、被抑圧少数者の問題は資本主義の深い矛盾の反映であり、その原因ではない。この様にして、これらの要求は真の問題から注意を逸らし、無限の混乱と分裂を蒔く。彼等は、マルクス主義者が被抑圧者の闘争を無視していると非難する。彼等は、我々は全ての問題を解決する革命を待って居るだけで、目の前の現実に対する回答を持たないと言う。これ程真実からかけ離れた事は無い。我々は抑圧と闘う為に階級闘争の方法を提起する。我々は全ての不正義に対する戦闘的・大衆的戦術を提起する。法的・数値的操作で間に合わせようとしながら、資本主義構造をそのままにしておくのは、改革主義的アイデンティティ・ポリティクスの提唱者達である。彼等は混乱を蒔き、人々を益々小さな集団に分断し、その結果として、抑圧と搾取の真の源泉に対して闘う力を奪う。我々は単に、被抑圧者の問題が階級社会の深い矛盾の反映であり、階級奴隷制が残る限り、これらの問題を完全に解決出来ると信じるのはユートピアであると説明するだけである。抑圧と闘い今日それを打倒しようと準備する為には、被抑圧・被搾取の全ての部門の最も広範な統一が必要なのであり、資本主義体制を打倒する必要があるのである。

分裂の政治

資本主義社会において、人種主義が重要問題である事に疑問の余地は無い。支配階級は常に、人種差別・民族問題・言語等に基づいて、ある社会集団を別の社会集団に対立させる事を通じて、労働者階級を分裂させ弱体化させようとして来たからである。従って、汎ゆる形態の人種主義との闘いは、マルクス主義者にとって最優先事項であり、我々は資本に対する闘争において労働者階級の最大限の統一を常に追求する。

先進資本主義国の中で、人種主義との闘いが合衆国程重要な国は無い。ブラック・ライブズ・マター運動の勃興は、警察による黒人青年殺害・差別・人種主義に対して反撃しようとする何百万もの黒人の意志の表現である。それは全く進歩的であり、支持されなければならない。

しかし、この現象を「理論化」しようとする傾向は、特に黒人アメリカ人が正当な権利の為に行う闘争にとって、否定的結果を齎し得る誇張へと導いて居る。マルクス主義者は人種主義と警察暴力に反対して闘うが、この闘争に何の助けにもならず、全てを妨げ弱体化させる一面的で誤ったイデオロギーを受け入れる義務は全く無い。

疑い無く、階級的搾取に加えて、人種主義・性差別・同性愛嫌悪・トランス嫌悪等、多数の抑圧形態が存在する。マルクス主義者として、我々は全ての抑圧形態を認識し、これと闘う。インターセクショナリティの問題は、我々を結び付ける物ではなく分断する物を強調し、異なる抑圧と所謂「特権」の無限の組み合わせに焦点を当てる点にある。そして、その結果として、我々全てが相互に対立する利害を持って居ると主張する。これは、抑圧された諸集団と労働者階級の異なる部門を互いに対立させ、抑圧と階級搾取を終わらせる為に必要とされる集団的・戦闘的階級闘争を妨げる。

著名なインターセクショナル・フェミニストであるパトリシア・ヒル・コリンズは、「全ての集団は、罰と特権の程度を異にする様々な度合いを有しており、状況に応じて、個人は抑圧者であり抑圧された集団の一員であり、同時に抑圧者であり抑圧された者である事もある」と述べる。彼女は、白人女性は社会的性別によって罰せられるが、人種によって特権を得て居る例を用いる。この見解の問題は、ある形態の抑圧を経験しない者は、当該形態の抑圧を維持する利害を持つ抑圧者だと示唆する点にある。抑圧の主体を主に個人と見做すこの焦点は、被抑圧者の闘争を一層原子化するのみである。更に、労働者階級の如何なる一部も、他の如何なる一部の抑圧を維持する利害を持たない。正にその反対である。

全ての被抑圧者を資本主義とブルジョア国家に対する共通の闘争に団結させる代わりに、「インターセクショナリスト」達は闘争をその最小構成要素へと分解しようとする。即ち、黒人女性を黒人男性に対立させ、黒人障害者女性を黒人健常女性に対立させる等である。この様にして、彼等は運動を細分化し、主要問題から注意を逸らし、被抑圧集団同士を互いに対立させる。

この様にして、それぞれの分断されたセグメントは、自分達の権利を他者の権利に対立させる様に誘導される。運動はより小さな部分へと分解される。一方、真の抑圧者――銀行家と資本家、新聞王と警察長官、反動派と人種主義者――は、運動が無数の無意味な争いと軋轢にエネルギーを浪費する光景を見て、手を擦り合わせて喜ぶのである。

画像:エドワード・キンメル

これは、幾つかの活動家達が他の活動家達を、「特権のヒエラルキー」における序列を理由に攻撃する事態へと導く。こうして黒人男性は黒人女性に比べて「特権的」であるとされる等々である。リストは無限に続き、その必然的結果は、運動の千々に乱れた断片化である。共通の敵と闘う代わりに、被抑圧の各セグメントは、自らの抑圧形態に専念し、自分達と他の被抑圧セグメントとの間で論争を繰り広げる様に誘導される。

大衆闘争の代わりに、小グループの活動家達が個別問題を巡る孤立した闘争に従事する。しかし、事態はそれで終わらない。この論理を徹底すると、如何なる組織も不可能となる。何故なら、必然的に全ての個人は唯一無二であり、それぞれが資本主義を独自の仕方で経験するからである。「同盟」と「共闘」を語る事は、彼等が提唱する分裂的接近を覆い隠す為の仮面に過ぎない。

これらの思想が如何に不条理な極端へと導かれるかを示す例として、急進的フェミニスト、例えばジュリー・ビンデルやジャーメイン・グリア等のトランス嫌悪を巡る最近の騒動がある。彼女達はトランス女性に関して、「本物の女性ではない」と主張する挑発的な発言を行って来た。これは、アイデンティティ・ポリティクスが誰かをどのカテゴリーに分類するかという問題に強迫的に取り憑かれて居る表現である。更に、彼女達が気に入らない考えを政治的に論駁する代わりに、双方ともボイコットやノー・プラットフォーム化、抗議、イベント破壊等のフーリガン行為によって、討論を阻止しようとする。

もし、被抑圧者の各セグメントがそれぞれ異なる方法で抑圧を経験するのが真実ならば、各個人もまた同様に異なる形で経験しており、従って他者は私の問題を理解し得ず、それは私個人の所有物だという事も同じく真実であると主張し得る。この議論は、レーニンが『唯物論と経験批判論』で徹底的に粉砕した主観的観念論の哲学的泥沼へと我々を引き戻す。インターセクショナリティに内在する主観的観念論は、パトリシア・ヒル・コリンズの次の一節に最も粗野な形で露わになる。「支配の包含的マトリックスは多くの集団を内包し、それぞれが罰と特権の様々な経験を有し、それに対応する部分的視点を生み出す……何れの集団も明瞭な視角を持たない。何れの集団も絶対的『真理』を発見する理論や方法論を所有していない。」

階級的観点の放棄

「インターセクショナリティ」の支持者達の文章や演説の中で、階級、ましてや労働者階級に言及する事は極めて稀である。

稀に階級が言及される場合でも、それはマルクス主義的な意味ではなく、「階級主義(クラスイズム)」という一形態の差別として理解される。これは多数の抑圧形態の一つに過ぎず、決して最も重要な物ではない。労働者階級は、全ての富を生産する階級であり、生産過程において搾取されて居る階級としてではなく、単に「差別されて居る」人々のカテゴリーの一つとして理解されるに過ぎない。これは、共産主義と社会主義革命の観点を完全に放棄した、かつての左翼の哀れな例である。

抑圧の根源を資本主義社会及び資本家の経済支配に求める代わりに、「インターセクショナリスト」達は、人々の社会的行動や使用する言語にその根拠を見出そうとする。彼等の見方では、今日の女性抑圧は資本主義的賃金奴隷制の結果ではなく、差別的言語や組織内の差別的構造の結果である。

旧植民地諸国においては、スターリニズムのイデオロギー破産の結果、中国革命やキューバ革命の勝利後、「マルクス主義正統」を越えるより「独創的」な解放哲学を追求する不同のグループや潮流が現れた。彼等は、抑圧からの解放の鍵はヨーロッパ中心主義的な思考と表現を廃棄し、認識論的・思考上の脱植民地化を行う事にあると主張する。そして、それがこれら諸国の歴史を「独創的」な方法で理解するための基礎であり、そこから解放が始まると説く。この改良主義的・反動的思考は、我々にブルジョアジーとその残酷な搾取形態に対して闘う事ではなく、認識論的に新たな道を探る事を求める。

この観点からすると、必要なのは社会を根底から再構築する革命ではなく、人々の精神構造や行動様式の改革と変化である。目標は社会の変革ではなく、抽象的な個人の自己実現であり、資本主義が存続する限り搾取と抑圧も存続するという事実は意に介されない。

革命党は、労働者階級が権力を掌握し社会を変革する為の道具である。それは、新社会の縮図ではなく、それを創造する為の触媒である。我々は当然、我々の隊列と政治活動における如何なる抑圧表現とも闘う。しかし、インターセクショナリスト達は、差別的行動を一掃した「純粋な」組織――差別行動のない理想社会の雛型――を築けると想像している。彼等は、如何なる組織も、その建設される社会からの圧力を受けるという事を理解していない。例えば、資本主義下における女性抑圧は、資本主義が存続する限り、如何なる組織においても男女が完全に同数代表される可能性を低くする。我々は女性やその他被抑圧集団の参加に対する全ての障害を取り除くべきだが、階級社会そのものが存在する限り、その圧力を取り除く事は出来ない。インターセクショナリスト達は、この古い社会の枠内において、このユートピア的「未来社会の雛型」を建設する事に全エネルギーを注ぎ込む事となり、この社会とその差別的行動を実際に終わらせる事が出来る組織を建設する事を怠る。これは、社会に対する唯物論的・弁証法的理解の完全な否定である。理想主義的構想は、この運動の一部が提起する「改革」の種類にも現れて居る。「社会的性別中立言語」「社会的性別中立子育て」等々である。この様にしてインターセクショナリスト達は、抑圧の根源は悪い観念にあり、それを「教育」によって取り除く事が出来ると想像する。これは完全に改良主義的・ユートピア的構想である。

「様々なフェミニズム学派」?

過去数年、幾つかの国々で抑圧と差別に反対する大衆運動を目撃して来た。合衆国における警察による黒人青年殺害に反対する最初のブラック・ライブズ・マター運動から、アイルランドの同性婚国民投票、ポーランドの中絶権防衛運動、アルゼンチンやメキシコその他諸国における女性に対する暴力反対運動に至る迄である。これらの運動は、我々が結び付かなければならない進歩的感情を反映しており、体制全体に対する問い掛けの要素を含んで居る。

スペインでは、2018年3月8日のストと「ラ・マナダ(狼の群れ)」集団強姦事件に対する運動が、何十万、更には何百万もの人々を動員したが、それはフェミニズムの名の下で行われた。大衆の目には、この語は「女性平等の為の闘争」を意味する様になって居る。しかし、8日「フェミニスト・スト」の呼び掛けを行った諸組織の指導者達は、理論としてのフェミニズムに従うフェミニストである。彼女達は、女性解放闘争は「横断的(トランスヴェルサル)」でなければならない(即ち階級や政治路線を超えたものでなければならない)、男性はせいぜい「同盟者」に過ぎず、ストには参加すべきではなく、女性スト参加者の職場の穴埋めを行うべきだと主張した。また、資本主義の下での女性搾取の場は労働力再生産にあり、「家事への賃金」を求めるべきだと主張した。運動が大衆運動となるにつれ、参加者の大多数はこれら多くの思想を知らないままであった。

画像:ギャリー・ナイト

この様な条件の下で、我々も自らを「フェミニスト」と称すべきだという考えを提起する同志達が幾人かいた。我々は、これは正しくも必要でもないと考える。当然の事ながら、文章や介入において、我々の議論を「フェミニズム」という語の意味を巡る論争で始めるのは、重大な政治的誤りであろう。我々が行うべきなのは、汎ゆる大衆運動への介入においてそうである様に、その最も進歩的・革命的諸側面を用い、積極的なやり方で我々自身の綱領と戦略を提起する事である。我々は、運動を鼓舞している革命的精神と結び付きつつ、運動の指導者達によって提起された誤った・逆効果な諸思想に対し、同志的なやり方で論争しなければならない。これが、既にメキシコやイタリア(2017年3月8日に大衆運動が起こった)やスペイン等で我々が行って来た事である。我々が自らを「フェミニスト」と称しないという事実は、我々の介入にとって障害ではなかった。

多くの若い男女は、マルクス主義的観点から見ればフェミニストではないにも拘わらず、自らをフェミニストと称している。彼等は社会における不平等を認識し始めており、自らをフェミニストと呼ぶ事によって、女性抑圧に反対し、平等な社会を望むという事を意味している。これは、革命的マルクス主義思想へと獲得される為の出発点であり得る。

フェミニストは、しばしば社会の大半の問題を「父権制」の責任にする。女性の隷属が最も古い奴隷制形態であり、それは階級支配と共に出現し、何千年にも亘って存続して来た事は真実である。この忌まわしい隷属を最終的に根絶する事が出来るのは、社会の根本的再構築だけである。しかし、その様な根本的変革は、労働者階級の統一された革命的行動によってのみ達成され得る。それは、男性・女性労働者が階級として自らの解放の為に闘うという行動を前提とする。フェミニスト達は、父権制を階級社会とは別個の構造として捉える傾向にあり、それは女性解放闘争が労働者階級解放闘争とは別個のものだという結論へと必然的に導く。これは反動的・分裂的な思想であり、多くの「マルクス主義フェミニスト」や「社会主義フェミニスト」と自称する者達の間にも、弱められた形で存在する。

女性の完全な解放は、搾取の上に女性抑圧が基礎付けられて居る資本主義社会を廃絶する社会革命によってのみ達成される。では、それは資本主義下における女性の前進の為の闘争を我々が無視するという事を意味するだろうか。勿論そうではない。我々は、差別や女性抑圧の最も小さな表現に対しても闘う。それこそが、全ての労働者の戦闘的統一を達成する為の前提条件である。

フェミニズムには異なる学派があるとしばしば主張されるが、これは疑い無く事実である。同様に、無政府主義にも多くの種類があり、その中には他よりマルクス主義に近いものもある。しかし、それは真正マルクス主義と無政府主義との間に明確な分水嶺が存在するという事実を変えるものではない。

無政府主義には異なる種類が存在するが、それらは程度の差こそあれ同種の偏見を共有している。共産主義により近い無政府主義者を獲得する道は、これらの相違が存在しないかの様に装ったり、「我々は皆、同じ目的の為に闘って居るのだ」と無政府主義者に言う事ではない。全く逆である。真正マルクス主義者によって、無政府主義の混乱し非科学的な思想と革命的マルクス主義の明晰で科学的な思想との違いを説明する事こそ、誠実な無政府主義者の混乱を解く道である。

ロシア革命の時期、一部は自らを「無政府共産主義者」と称していた。革命の経験の結果として、無政府主義者の中で最良のプロレタリア要素はボリシェヴィズムに接近し、革命と内戦でボリシェヴィキと肩を並べて闘った。彼等の多くは共産党に加入した。「無政府共産主義」の潮流は、共産主義へと向かう過程での一種の中間段階、或いは移行段階を代表していた。

同様に、幾つかの種類のフェミニズムは他より進歩的であるかもしれない。マルクス主義者は、女性の完全解放の為に汎ゆる手段を用いて闘わねばならない。では、フェミニズムとは何かと問う事が出来る。しかし、これに明確に答える事は全く不可能である。それは保守主義者・リベラル・進歩派・左翼といった全てが用いる用語である。それはアフガニスタン侵略を、「女性の権利を守る」名目で擁護する為にも用いられるが、同時に平等と人類解放の為に闘おうとする人々によっても用いられる。実際、スペインにおいても、右派与党ですら3月8日に自党が「フェミニストでもある」と示す為に紫色のリボンを用いた。オックスフォード英語辞典は、それを「両性の平等の観点からの女性の権利の擁護」と定義する。この定義は、用語の中心的問題を示している。即ち、それが階級的観点からは何も語らないという事である。

フェミニズムは、何でないかによって最も良く定義され得る。それは、抑圧が如何にして生じたか、従って如何に闘われ除去され得るかについて、如何なる回答も与えない。全ての種類のフェミニズムは、それぞれ自分なりの回答を持つが、そもそも回答を持たないものもある。フェミニズムは、女性抑圧を資本主義と階級社会一般という根源を取り除く前に除去する事が何らかの形で可能であると暗示する。クラス境界線を鮮明にする代わりに、それをぼかすのである。全ての種類のフェミニズムは、症状のみを見ており、根本原因を見ていない。マルクス主義者として、我々は有る事を有るが儘に述べなければならない。我々はフェミニズムに対して明確な一線を画さなければならない。これは、我々が「両性の平等の観点からの女性の権利」の為に闘わないからではない。我々は当然これの為に闘う。しかし、フェミニズムの「最良の種類」ですら混乱と階級を超えた虚偽の統一感を生み出すに過ぎないからである。

従って、自らをマルクス主義フェミニストと称する事には何の意味も無い。実際、それは直接的に逆効果であり、誠実な若い階級闘士達にとって女性問題を明確にする助けにもならない。寧ろ、プチブル的・非階級的思想や哲学的観念論がマルクス主義者の隊列に滑り込む橋頭堡を作り出してしまう。

我々は自らをフェミニストと称する事は出来ないが、資本主義の下で労働者として、女性として二重に苦しむ労働者階級女性の間に深く根ざした憤激の感情に対して、我々が無関心であるという印象を与えてはならない。また、マルクス主義者が女性解放闘争を遥か彼方の社会主義未来に従属させるという誤った観念に何らかの信憑性を与えてもならない。全ての矛盾と制限にも拘わらず、フェミニズムの旗印の下で、新世代の女性達が現状に対する闘争へと突き進んで居る。この具体的状況から出発し、その革命的潜在力を認識しつつ、我々は女性の古来の抑圧を資本主義腐朽期の具体的条件と結び付ける道を見出さなければならない。

同様に、労働組合内部で革命家として活動する際、我々は同僚労働者の日々の闘争に参加しつつ、闘う労組と社会主義的政策を要求する。全く同じ様に、我々は全ての女性大衆運動に参加し、これに最も戦闘的な性格を与え、当面の要求を社会の根本的変革の必要性と結び付けようと努力しなければならない。我々の義務は、女性の民主的要求と平等の為の闘いとを、抑圧的体制に対する全労働者の共通の闘争と結び付け、資本主義がその支配を永続させる為に被抑圧階級を分断しようとするのに対し、これを一撃で打倒すべき必要性を強調する事である。

自らを「マルクス主義フェミニスト」と称する事は、マルクス主義が平等の為の闘いを包含していないと暗示する結果となる。スターリニズムはそれを包含していなかった。しかし、我々がマルクス主義的遺産を取り戻す為にスターリニズムと闘う様に、この分野でも闘わなければならない。我々は、スターリニズムはマルクス主義ではなく、スターリニスト官僚体制は社会主義ではなかったと主張するが、同じく、女性や同性愛者等に対するスターリニスト的見解はマルクス主義とは何の共通点も持たないと主張しなければならない。

定義上、「女性」というカテゴリーには、利害が相容れない全ての階級の女性が含まれる。これら決定的階級的区別と矛盾を曖昧にする以上、フェミニズムは階級分析から出発するマルクス主義と両立し得ない。フェミニストをマルクス主義へと獲得しようとするならば、それは我々が原則において絶対的に堅固である事によってのみ可能である。我々は、女性の完全解放は階級統一と社会主義革命によってのみ達成され得る事を繰り返し強調しなければならない。自らをフェミニストと称し、女性の権利を擁護する人々も居る。マルクス主義者も女性の権利を擁護するが、我々はフェミニストではない。何れにせよ、我々は同志的なやり方で、彼女達の闘争に反対していない事、寧ろ女性の権利を支持しているが、それは分裂ではなく資本主義に対する闘争を通じて獲得され得ると考える事を説明しなければならない。同時に、我々は差別と不平等の全ての表現に対する闘争の先頭に立ち、平等の大義を前進させ、如何なる抑圧や差別にも反対する最も小さな要求の為にも闘わなければならない。例えば、

・全ての人々に対する普遍的雇用と、価値の等しい仕事に対する同一賃金

・緊縮政策の終結(これは女性に不均衡に影響し、彼女達の賃金を削減し、社会サービスの欠如を補う為に、若年層と高齢者の世話をする家事労働を増やす事を強いて居る)

・中絶の権利

・全ての人々に対する無償で質の高い医療、無制限の家族計画・中絶・家庭内暴力センターへの無料アクセスを含む

・完全有給の育児休暇

・大規模な社会住宅建設計画

・実際の労働時間をカバーする、無料で質の高い保育所の広範なネットワーク

・無料で質の高い高齢者介護(施設及び在宅双方)

・無料の給食・洗濯サービスの提供

・職場と学校における無料で質の高い食堂

・女性に対する暴力への反対の為の闘争

しかし、職場における成功裏の闘争の前提条件は、労働者としての男女労働者の統一である。根本的分水嶺は、マルクス主義が社会を社会的性別ではなく階級の観点から説明するという点にある。社会における最も基本的な分裂は、労働者と資本家、被搾取者と搾取者との間にある。他の諸種の抑圧が存在するのも真実である。しかし、究極的には、これらの何一つとして資本主義の枠内では解決され得ない。

賃金・年金・住宅・医療・労働条件といった汎ゆる他の問題における様に、資本主義下での前進を求める日々の闘争こそが、資本主義を打倒する為に労働者階級を動員・組織する唯一の道であり、その闘いにおいて女性労働者は決定的役割を果たすであろう。

フェミニズムが成し遂げる事が出来る事の限界を理解し始めたフェミニストが存在する事を、我々は当然歓迎する。しかし、この肯定的傾向が意義を持ち得るのは、それが最終的に首尾一貫した革命的階級の観点の採用へと至る移行段階として機能する限りにおいてである。女性の完全解放は、社会主義革命の勝利によってのみ達成され得るのであり、さもなければ達成される事はない。

「用語上の急進主義」

真正の平等闘争の代わりに、我々は人工的なクォータ制を提供されて居る。社会の根本的再構築による解放闘争の代わりに、「政治的正しさ」が提供されて居る。その実体は、特定の言葉やセマンティクスを巡る果てしない些末な争いであり、ある語を用いる事が許されるか否か、「社会的性別に基づく言語」を変更する必要性等である。

真のポストモダン的「物語」の精神に則り、言葉を行為に置き換える形で、一部諸国では自らを「左翼」或いは「マルクス主義者」と称する人々が、男性形と女性形を中和する為に言語をねじ曲げ、「compañer@s」(スペイン語)「compagn*」(イタリア語)等の様な変種を生み出す言語上の曲芸に、多大な時間を浪費している。この種の言葉遊びは、女性や黒人その他誰の解放闘争をも一歩たりとも前進させない。それは最も粗野で馬鹿げたトークニズム(見せ掛け)である。

『ドイツ・イデオロギー』の中で、マルクスとエンゲルスは、個人の意識を変える事によって物質的条件を変えられる、そして革命を行う為には先ず人々を「教育」しなければならないという観念を既に扱っていた。

「この共産主義的意識を大規模に生産する事と、その大義そのものの成功の為には、人間を大規模に変革する事が必然であるが、その変革は実践的運動、即ち革命においてのみ起こり得る。この革命は、支配階級を他のどの様な方法でも打倒する事が出来ないから必然であるだけでなく、それを打倒する階級が革命においてのみ、永世の汚物を振り払って社会を新たに創造するにふさわしいものとなる事が出来るからこそ、必然なのである。」

言語へのポストモダン的執着は、全ての問題を逆さまにする。言語を変えても、抑圧の現実は一片たりとも変わらない。そう信じる事は完全な観念論的接近を露わにする。言語は変化し進化するが、それは現実世界の変化を反映しての事である。しかし、その逆は明らかに真実ではない。

言葉を巡る小競り合いは、大学のセミナーに特有の傾向であり、そこでは人々は特にする事も無く、「犬が自分の尾を追いかける」様に、何か特別な事でもない事柄について果てしない議論を行う。ドイツの詩人ゲーテは「初めに行為ありき」と書いた。女性解放をもたらす為に必要なのは、抑圧と差別と闘う行動である。しかし、成功裏の大衆行動の前提条件は、正に抑圧の共通奴隷状態に基づく、労働者階級女性と男性の戦闘的統一である。

「急進的」プチブルは、常に何かに対して大騒ぎしなければ気が済まない様である。例えば、所謂クィア理論等である。此処でこの理論を詳細に分析する余地は無い。それは別の文書や論文で行う事が出来よう。此処で言うべきなのは、これは最も粗野な形態の哲学的観念論に根ざした徹底的反動的概念であるという事である。それは抑圧に対する闘争を弱体化させる分裂を蒔き、これを支持する人々の意図に関わらず、必然的に反動の手に奉仕する。

マルクス主義は哲学的唯物論に基礎を置く。それは自然・社会・人間行動を分析する唯一真正な科学的方法である。好むと好まざるとに関わらず、動物界(人間を含む)における性は正常な生殖方法である。無性生殖は、ミミズや一定の魚類等、動物界にも存在する。しかし、進化の発展と共にそれは消滅し、哺乳類には全く存在しない。

性は、人間が意識的に決定したり発明したものではない。それは進化の産物である。性別が人間の意志によって恣意的に決定され得るという観念は、恣意的であり、哲学的にも科学的にも誤りである。

根本的な性的区別は男性と女性の間にある。これは生殖過程によって自然に決定される。これは更に、一定段階で労働分業の萌芽を内包し、それが発展するにつれて階級分裂の基礎となる。女性の男性への従属、父権的家族関係に表現されるものは、階級社会の勃興と一致しており、階級社会そのものが廃絶されて初めて完全に根絶されるであろう。

マルクス主義者は、女性やその他全ての被抑圧諸層の真正の解放の為に闘う。しかし、解放は、単に社会的性別が存在しないと想像する事によっては達成され得ない。誰でも自分が何であるかを想像する自由はある。しかし、最終的には、人は哲学的観念論の精神的放浪よりも、物質的現実を受け入れざるを得ない。

クィア理論の数え切れない程多様で奇妙な変種の中には、共通の糸がある様に思われる。第一に、それは社会的性別(更にはセックス)を純粋な社会的構築物として提示し、全ての生物学的・物質的側面を否定する。次の段階は、想像力の中でほぼ無限の社会的性別を創造し、その中から誰もが自由に選択出来るとする事である。

我々は、男性と女性以外に中間的形態が存在する事実を否定しない。それは古くから知られて居る事実である。プレ・コロンブス期のアメリカでは、その様な人々は特別な社会集団として見做され、尊敬を以て扱われた。

現代科学は、人々が性を変更する事を可能にしており、それはそれを必要とする全ての人に利用可能であるべきである。我々が、トランスジェンダーの人々に対する如何なる形態の差別と不寛容にも完全に反対である事は言う迄も無い。誰もが自らをどう名乗ろうと我々は何ら異議を差し挟まない。しかし、これを社会変革の手段として提示する事は、(支配階級にとって非常に都合の良い)解放が純粋に個人的ライフスタイルの選択の問題であるという観念へと我々を導く。

我々は、この種の事柄が、ラディカル・フェミニストと性的少数者の権利を擁護する活動家の間の醜悪な分裂と激しい確執において、どれ程否定的な結果を齎しているかを目にしている。この様な展開は、抑圧に対する闘争に如何なる意味においても奉仕しているとは言い難い。それらは徹底的に反動的であり、闘われなければならない。

労働運動内部の「アイデンティティ」

マルクス主義者は女性解放の為に闘い、現在の資本主義体制の枠内であっても女性の地位を改善する傾向を持つ如何なる進歩的措置をも、防衛するであろう。しかし、我々はこれと、自らの方法、即ちプロレタリア階級闘争の方法によって闘う。

我々は、究極的には女性の真の完全な解放は社会の根本的変革、即ち社会主義革命によってのみ確立され得るが、その前提条件は、労働者階級が統一され、自らの革命的任務を意識する事であると指摘する。

マルクス主義者は、如何なる抑圧や差別に対しても反対し、これと闘う。しかし、抑圧と差別に反対し闘う際、我々の主たる目的が社会主義の為に闘う事であり、それが何よりも労働者階級の統一を防衛する事を意味する事を決して忘れてはならない。我々は、社会的性別・民族性・言語・宗教の如何を問わず、労働者階級の完全な統一を主張する。労働者の統一と階級意識の向上に資する物は全て進歩的であり、何らかの理由であれ労働者を分裂させる物は全て反動的であり、闘われなければならない。この点を我々は強調しなければならない。女性抑圧――特に労働者階級女性の特別な抑圧――や環境破壊、規模が小さな民族に対する抑圧等の資本主義の他の災厄は、資本主義の不可欠な一部である。家内奴隷制や労働者階級女性の「二重負担」抜きに資本主義は存在し得ないし、大企業の利潤欲と結び付いた地球の荒廃抜きに資本主義は存在し得ないし、小さな民族を帝国主義列強が隷属させる事と、その資源略奪及び他の列強に対する覇権確保抜きに資本主義は存在し得ない。従って、これら全ての災厄を終わらせる唯一の真の道は、労働者階級が主導する社会主義的社会変革である。

右派の労働党議員、ジェス・フィリップス / 画像:クリス・マクアンドルー

労働運動の官僚は、異なる労働者集団を互いに対立させ、労働者階級内部に賃金格差を認める事を学んだ。労組指導部は、安易な生活と資本家との妥協を求め、一部労働者層を売り渡す事で、他の層への譲歩を獲得しようとする。多くの国で、「積極的差別是正」が官僚によって体系的に用いられ、「社会的性別」や「民族性」を利用して指導部ポストを埋める事により、左翼候補を押し退け、自らの社会的性別や民族性を出世の為に利用するキャリア主義者層を押し上げて居る。

官僚達は、自らの理由から、女性や黒人等の「留保議席」を設ける事に熱心である。特に労働組合官僚は、選挙機関の構成を希釈する為にこの仕掛けを用いる。彼等は、「特別集団」を代表していると称するキャリア官僚層に依拠し、こうしてパトロネージュを通じて階段を登った者達を支援する。そして、彼等は「自らの問題」を押し進める為の自律性を与えられる限り、喜んで指導部を支援する。これらの留保枠は、「特別集団」に「代表」を与える代わりに、実際には政治的立場に基づいて選出されるのではなく、単にクォータを満たす為に選ばれるという意味において、一層代表性に欠ける指導部を生み出す。

社会的性別や民族性を主問題として強調する事は、人々を階級ではなく他の観点に基づいて分断する傾向を持ち、その結果として労働者階級にとって極めて否定的な結果をもたらす。労働組合の右派指導者や改良主義者(特に左改良主義者)は、何処でも階級闘争と労働者階級の真の問題から注意を逸らす為に、「政治的正しさ」や「アイデンティティ・ポリティクス」を用いる。彼等は言語の問題に集中し、抑圧と闘う為の戦闘的階級闘争ではなく、これを言葉遣いの問題に矮小化する。

これら有害な思想は、労働者階級を監視し階級闘争の範囲と効果を制限する事を主たる役割とする、労組官僚層の最も反動的部分の手にある武器である。官僚の伝統的な警察的手法――懲戒措置の脅し、戦闘的職場代表の更迭、除名等――に、今や新たな手法が加わった。それは、アイデンティティ・ポリティクスの狂信者達による恫喝と魔女狩りである。

英国のある労組大会では、アイデンティティ・ポリティクスの提唱者達が「女性が男性に対して行ったハラスメント告発は、当該女性の言葉以外の何らの証拠を必要とせず、自動的に真実として受け入れなければならない」とする決議を提出した。男性代議員の一人は、次の様に批判した。「私は職場代表である。女性上司がいて私を追い出したいと想像してみよう。彼女は非常に簡単にそれが出来るだろう。ただハラスメントを告発すれば、私は即座に解雇され、組合は私を守る事が出来ないのだから。」この時は決議は否決された。しかし、この様な政策の危険性は明らかである。

これらが真剣に挑戦されていない理由は、彼等が議論に勝利したからではなく、人々がアイデンティティ・ポリティクスの提唱者達に嫌がらせを受ける事を恐れて居るからである。彼等の陰謀に異議を唱える如何なる者も、即座に人種主義者・女性嫌悪者その他彼等の思い付くカラフルな罵倒語で烙印を押される。これが、左派労組活動家に対するフーリガン的行動と悪意ある中傷キャンペーンへと繋がり、捏造された告発に基づく魔女狩りが行われて居る。訴えは、アイデンティティ・ポリティクスの提唱者達の怒号とわめき声によって直ちにかき消される。彼等は対立者に対して最も悪辣な侮辱と中傷を浴びせる事を躊躇しない。

クォータ制の原則は、実際には最も露骨な意味での選挙操作である。右派は、自らがこのまたはあの少数派集団を代表すると正当化して選出される多くの人物を持って居る。しかし、人々は差別擁護だと非難される事を恐れて沈黙している。

英国では、トニー・ブレアは、オール・ウィメン・ショートリスト(女性候補者限定リスト)を熱心に利用し、左派を押し退けてキャリア主義的議員を選出した。皮肉な事に、これら「積極的差別是正」方針を最初に推進したのは、いわゆる「トレンディ左翼」達であった。彼等はかくして、右派の手に完全に遊ばれたのだ。労働党右派は、ウェールズとスコットランドからの2議席を全国執行委員会(NEC)に設ける事を提案し、「諸民族」は代表されなければならないと主張する事で、民族問題を利用してジェレミー・コービンを弱体化させた。奇妙な事に、偶然にもスコットランドとウェールズ労働党は右派によって支配されていた。

左派改良主義者達は、常に自分達が最もフェミニストであると証明しようとするが故に、これを一層強く主張する。彼等はクォータ制と女性その他に対する特別扱いを強く主張する。ポデモスやモメンタム等は、この諸問題において伝統的労働運動より遥かに先走って居る。これは、これら組織に対するプチブル影響を反映している。クォータ制の反動的帰結の一つは、それが労働者階級内部の分裂と競争を深める事である。資本主義の深刻な危機と全政府による緊縮・削減の時代において、諸労働者層の後進的部分の中には、我々の問題は資本主義そのものから生じるのではなく、国内少数派や移民、権利を主張する女性等の存在から生じるのだという反動的結論に耳を傾ける層が生じ得る。これは、ファシストや最も反動的右翼運動のプロパガンダの基礎を成している。我々には仕事や保育所が十分に無く、大学や社会給付へのアクセスも限られて居るが、それは国内少数派・社会的性別等に与えられたクォータの為だというのである。これら全てが、人種主義と分裂の毒を労働者階級内部に広める助けとなる。更に、クォータに基づいて選出された者達は常に二級扱いされるであろう。何故なら、彼等の言う事は「彼等には委任状が無く、女性/黒人/ゲイ等であるから選出されたに過ぎない」と言って簡単に退けられ得るからである。

ブラジルでは、状況は更に悪い。左翼のほぼ全体が、大学等にクォータを導入する為に、人口全体を「民族性」の線に沿って分断するという酷い提案に屈服している。ブラジルの同志達はこれに対して徹底的な立場を取って来た。彼等は、我々が闘うべきなのは、全ての人々に対する教育・医療・住宅等であり、これは存在する社会的富を考えれば達成可能な目標である事を主張して来た。それら資源を希少な物と見做し、その後に比例配分の為に闘うべきではないのである。

我々は、所謂積極的差別是正やクォータ制・代表制等に対して徹底的に反対である。女性や少数者を労働運動に最大限参加させる方法は、我々が全ての抑圧・差別に対して闘い、全ての人に雇用を、価値の等しい仕事には同一賃金を要求する闘いにおいて、行為によってそれを示す事である。闘う綱領に基づいてのみ、最も被抑圧層を運動に引き入れる事が出来るであろう。しかし、それは指導部が、男性か女性か、白人か黒人か、異性愛者か同性愛者かを問わず、最良の闘士達の手に委ねられる事を意味する。

この空虚なトークニズムは、最初に中間層専門職に基盤を置くホワイトカラー労組を通じて労働運動にもたらされた。彼等は中間層インテリや学生に最も近かった。脱工業化と労組統合の結果、これら層が労働者を押し退けた。より雄弁な(或いは少なくとも声の大きな)中間層タイプは、自らの「トレンディ」な思想を運動に持ち込み、これを受け入れられた規範として確立する事が出来た。

これは、多くの国々の労組に多かれ少なかれ影響している。女性・LGBT・黒人・障害者等の留保議席が存在する。彼等はそれぞれ独自の大会・委員会等を持ち、それぞれ独自の小さな官僚層を持つ。彼等は、これら問題については自分達だけが決定出来ると主張する。そして、彼等が残りの労組官僚層にとって面倒を起こさない限り、それぞれ自分達の封土を運営する事が許されて居る。左改良主義者やセクト主義者は、この状態を当然の事として受け入れる。何故なら、彼等の思想と政策もまたプチブル的性格を有しているからである。

リベラル・フェミニズムに対する反発

中間層の女性達は、新たなキャリアの機会を求めて叫んで居る。銀行家・CEO・主教――或いは合衆国大統領にすら――成ろうとしている。これは、古い改良主義者の歌の新たな変奏である。「私は労働者階級の条件改善に賛成である――一人一人、先ず自分自身から始めよう。」

女性が銀行の取締役会に進出する事が、労働者女性の大義に如何に貢献するのかは説明されない。女性上司が、男性上司よりも部下に優しいという証拠は極めて乏しい。マーガレット・サッチャーやアンゲラ・メルケル、テリーザ・メイの成功が、工場現場の「姉妹」達の大義を如何に助けたのかもまた、未解決の謎である。

徐々に、多くの政治的自覚を持つ女性達が、フェミニズムの否定的側面を理解し始めて居る。彼女達は、ブルジョア・フェミニズムが、女性達が資本主義という搾取的抑圧的体制に「平等に」参加する事を鼓舞する運動へと堕している事を見て居る。

画像:ペンシルベニア州立大学ニュース

ジェッサ・クリスピンは、その著『私は何故フェミニストではないのか』で、フェミニズムを、CEOや美容企業が人気を得る為の自己奉仕的ブランド、「無力で貧しい者達の抑圧に女性を平等に参加させる為の闘い」として描写した。この表現は悪くない。しかし、彼女自身はこの本の題名にも拘わらず、自らをフェミニストと呼び続けて居る事は注目に値する。

ニューヨーカー誌はこうコメントしている。「『私は何故フェミニストではないのか』は、アメリカのリベラル女性の一部が、大きな方向転換に備えて居る時期に登場した。彼女達は突如として、『金と権力』という家父長的資本主義の成功指標を神聖視しない信条に傾いて居る様に見える。即ち、クリスピンが言う様に、『低所得女性の生活』により関心を寄せるフェミニズム、女性CEOの数よりもそれに関心を寄せるフェミニズムへの渇望が高まりつつある様に見える。

「『フェミニズムは資本主義と広く両立し、実際これによって支えられて居る』という対立する見解は、確かにその分の名声を享受して来た。これは、過去10年間に自己表現的フェミニスト・ロールモデルの圧倒的多数によって伝えられたメッセージである。即ち、フェミニズムとは、個々の女性が自分の望む事を何でも出来るだけの金を得た時に呼ばれるものだというメッセージである。クリスピンは、この種のフェミニズムを容赦なく解体する。それは単に、自らの抑圧から買い出され、それを永続させる事であると彼女は主張する。彼女は、フェミニズムは『被抑圧者の意志に従属する誰かを持つ事に依存する家父長的幸福モデル』を受け入れて居ると主張する。女性達は、世紀に亘って搾取されて来たが故に、他者を搾取したいという無意識の欲望を育んで来たのだとクリスピンは信じる。『一旦我々が体制の一部となり、それから男性と同じ水準で利益を得る様になると、我々は集団として、誰が傷付けられる番なのかについて気に掛ける事は無くなるだろう』。」

フェミニズムの危機は、米国における政治の急速な左傾化――社会主義と反資本主義への方向転換――に反映されて居る。特にドナルド・トランプの選出以後、その傾向は顕著である。アイデンティティ・ポリティクスの反動的性格は、2016年米国大統領選挙において鮮明に露わになった。ウォール街と億万長者階級の最も完璧な代表者であるヒラリー・クリントンは、自らが「女性だから」という理由で女性に投票を求めたのである。

元国務長官マデレーン・オルブライト――筋金入りの反動分子であり戦争屋――は、ニューハンプシャーでヒラリー・クリントンを紹介しながら、「互いに助け合わない女性は地獄の特別な場所に行く」と聴衆や有権者に語った。実際には、数百万のアメリカ女性がこの社会的性別政治への訴えを拒否し、クリントンとオルブライトを背にし、サンダースを支持した。これは、アイデンティティ・ポリティクスの提唱者達にとっての痛烈な一撃であった。

これは、米国の女性達が大統領選挙において候補者に投票する際、社会的性別よりも候補者の政策と思想を遥かに重要だと考えて居る事を示した。それは完全に正しい見解である。残念ながら、彼女達の唯一の選択肢は、反動的扇動家ドナルド・トランプであった。彼は「反体制」候補を装って登場した。もしバーニー・サンダースが立候補していれば、多くは彼に投票したであろう。しかし、それは別の問題である。

我々が防衛する遺産

マルクス主義者は女性問題を無視して来たと非難されるのは奇妙である。しかし、マルクス主義者は最初から性別を問わない普遍的参政権を綱領に掲げて来た。それはサフラジェット運動以前の事である。エレノア・マルクスは、英国労働組合運動において女性の同一賃金の為に闘った。早くも1848年に、マルクスとエンゲルスはブルジョア家族の廃絶を要求したが、それが一夜にして達成され得ない事も認識していた。

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ボリシェヴィキ党は1917年に権力を掌握すると直ちに、歴史上最も徹底した女性解放綱領を実施した。彼等はまた、同性愛を非犯罪化した。これは当時の如何なる資本主義国よりも遥かに先進的なものであった。ボリシェヴィキは、抽象的な抑圧一般に関する議論ではなく、資本主義打倒を通じて、女性や同性愛者に遥かに多くを保証し得る事を実践によって示した。

トロツキーは次の様に指摘している。

「革命は、所謂『家庭の炉辺』――それは古風で、息苦しく、停滞した制度であり、労働諸階級の女性が幼少時から死に至るまでガレー奴隷労働を強いられる場である――を破壊しようとする英雄的努力を行った。家族という閉鎖的な小企業の地位は、社会主義社会の諸制度――産院・託児所・保育園・学校・共同食堂・共同洗濯所・救急所・病院・サナトリウム・スポーツ組織・映画館等々――によって占められる筈であった。家族の家事機能を社会主義社会の諸制度が完全に吸収し、全世代を連帯と相互援助の下に結合する事によって、女性は、従って恋人同士は、千年来の枷から真に解放される筈であった。

(…)古い家族を電撃戦で攻略する事は不可能である事が判明した。意志が欠けていたからでもなく、家族が人々の心に余りに深く根ざしていたからでもない。逆に、労働女性達は、政府とその託児所・保育園等に対する短期の不信感を経た後、集団的子ども養育と家事の社会化の計り知れない利点を評価した。残念ながら社会は余りに貧しく、余りに文化水準が低かった。国家の現実の資源は、共産党の計画と意図に対応していなかった。家族を『廃絶』する事は出来ない。それを置き換えなければならない。女性の実際の解放は、『一般的欠乏』の土台の上では実現不可能である。八十年前にマルクスが定式化したこの厳しい真理が、経験によって直ちに証明された。」(『裏切られた革命』第七章)

再び理論の重要性について

IMTは何の理論を防衛するか。第一に、我々はマルクス・エンゲルス・レーニン・トロツキーの思想に立脚する。これらの思想は時間の試練に耐え、二十一世紀世界においても完全に有効であり妥当である。我々は第一インターナショナルの思想、コミンテルンの最初の四回大会(スターリニスト退廃以前)の文書、そしてトロツキーの『過渡的綱領』を防衛する。トロツキー死後の数十年に亘るテッド・グラントの著作もまた、我々のイデオロギー遺産の根本的部分を構成している。

最近組織に加入した一部同志達が、まだマルクス主義思想を完全に把握していないのは必然である。それには当然時間が掛かる。しかし、真正マルクス主義からの誤った・異質な・プチブル逸脱に、我々が僅かでも譲歩するならば、それは致命的となる。我々は、その様な偏向に対して一切の譲歩を許してはならない。学生が我々の組織に加入したいと望むならば、我々は彼/彼女に対し、「喜んで来たれ」と言う。しかし同時に、「労働者階級の展望と視点を採用し、マルクス主義の学習に身を捧げる用意がある場合に限る。偏見は戸口に置いて来る事」と言わなければならない。

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マルクスは1879年9月17~18日付エンゲルス宛書簡でこう書いて居る。「他の階級出身のこの種の人々がプロレタリア運動に加入する場合、第一の条件は、彼等がブルジョア的・プチブルジョア的等々の偏見の残滓を持ち込まず、プロレタリアートの観点を全心全意で採用する事でなければならない。」

トロツキスト運動は過去にこの種の事柄について十分な経験を持って居る。米国SWPの例を挙げるだけで十分である。この党は、1930年代にトロツキーの優れた助言を無視した為に完全に退廃した。彼等は学生環境に溺れ、階級的観点を放棄し、フェミニズムやブラック・ナショナリズム等、全てのトレンディなプチブル思想を採用した。そして、今目にする惨めな状態に陥ったのである。

IMT内部でその様な事態が発生しない様にする為には、これら諸問題について組織全体を教育しなければならない。我々は真正の革命的マルクス主義勢力として労働者階級を獲得する能力を維持する為、プチブル的思想に対して僅かな譲歩も許す事は出来ない。

レーニンは、エンゲルス・マルクス・トロツキーと同様、急進的プチブル思想に特に激しく攻撃を加える際、決して言葉を選ばなかった。我々は、フェミニズムに関してレーニン・ローザ・ルクセンブルク・クララ・ツェトキンが書いた物を再刊すべきである。彼等はこの点で極めて明瞭である。我々は、インターセクショナリティやその他全ての「アイデンティティ・ポリティクス」変種に対する反対を、公然と表明しなければならない。それは明白に反革命的潮流を代表している。この問題において曖昧さの余地は無い。我々は最も明瞭かつ強調的な方法で自らを表現しなければならない。

我々は学生を獲得したい。しかし、それは、プチブル思想と決定的に決別し、労働者階級の観点にしっかりと自らを置く用意のある学生でなければならない。学生同志達は労働者階級、工場、労働者住宅地、労働組合と労働運動に向かって顔を向けなければならない。全ての学生同志は、少なくとも一人の若い労働者を組織に獲得する事を目標に掲げるべきである。

1932年11月、トロツキーはこう書いて居る。

「革命的学生は、第一に革命的自己教育の厳格かつ首尾一貫した過程を経、第二に未だ学生であるうちに革命的労働者運動に加入する場合にのみ、貢献を成し得る。同時に、理論的自己教育と言う時、私は純粋なマルクス主義の研究を意味する事を明確にしておきたい。」(トロツキー「学生と知識人について」1932年11月)

我々の学生同志をプロレタリア化する道は、何よりも先ず彼等に徹底したマルクス主義理論教育を施す事である。多くの学生は、腐敗した学問環境の中で吸収した多くの混乱した観念を抱いて居る。我々の任務は、これら誤った思想を出来るだけ早く矯正する事である。これは「やんわり」した接近では達成されない。経験は、真剣な学生達は率直な議論によって傷付く所か、それを尊重する事を示している。率直な議論に耐えられない者は、我々の「口調」に腹を立てて居るのではなく、自らのプチブル思想と偏見を捨てられないからこそ腹を立てて居るのだ。率直に言って、我々はその様な人々を必要としていない。

我々は、堅固でイデオロギー的に同質な組織を維持する事に成功して来た。これは、我々の学生に対する数十年に及ぶ厳格なマルクス主義教育の成果である。

しかし、方法における小さな誤りや誤ったスローガン・定式は、より深刻な問題へと発展し得る。レーニンが言った様に、「一つの小さな傷が壊疽を引き起こし得る」。我々は、論争を用いて政治水準と理解を高め、インターナショナルを堅固な基盤の上に建設しなければならない。

画像:シスター・マーチズ、Flickr

経済成長の数十年は、先進資本主義諸国において労働者階級の大衆組織の前例の無い退廃を生み出した。その結果、革命的潮流は孤立し、至る所で小さな少数派へと縮小された。我々は必然的に、逆流の中で泳ぐ事を学ばなければならなかった。

しかし、我々の真正の思想・方法・伝統の明確化は、容易にも、闘争無しにも達成されなかった。それは一連の分裂の中に表現された。この選別の過程は、IMTを弱体化させる所か、巨大に強化した。将来の成功の前提条件は、日和見主義者及び修正主義潮流から決定的に決別する事であった。レーニンが説明した様に、「我々が団結する前に、そして団結する為には、先ず第一に、明確で定固な境界線を引かなければならない。」のである。

左翼の中で唯一、IMTはマルクス主義理論に対して真剣な態度を取って居る。学生の理論的訓練は、我々の最も根本的かつ緊急の任務の一つである。これこそが、労働者階級に根を下ろした強力なマルクス主義潮流を建設する為に、我々が基礎とすべき土台である。